山田健太 著
2016年11月24日
サブタイトルに「政権とメディアの8年」とある。新聞も出版もテレビもここ数年、厳しい時を過ごしてきた。今は亡き評論家の鷲尾賢也氏が、出版業界全体が会社更生法寸前である、とWEBRONZAに書いたのは5年前のことである。新聞もテレビも、時の政権とニューメディアの挟み撃ちに遭って、崖っぷちのところに立っている。
『見張塔からずっと——政権とメディアの8年』(山田健太 著 田畑書店)
もちろんこれは、日本にも当てはまる。なにしろ報道の自由度調査で、国際民間団体から世界で72位という低い評価を受けたのだから。
著者によれば、新聞・出版・テレビはこの数年間に、忘れることができないほど、退却につぐ退却を強いられた。新聞労連の調査によれば、新聞社に勤める半数以上の社員が辞めたいと思ったことがあり、また1割以上が、死にたいと思ったことがあるという。
この数年間をざっと見て行くことにしよう。
「要するに紙の新聞を発行するというビジネスモデルはすでに崩壊しているというのだ。……目を世界に移すと確かに、米国では新聞社の身売りが続いているし、紙の発行を停止し、オンラインだけにした新聞も出てきている」(「紙の新聞の大切さ」2009・3・15)
しかしもちろん、日本の場合、共通の言論公共空間は、全世帯メディアである新聞をおいて他にはない。だから一部地域の夕刊の廃止は、きわめて深刻な事態だ。
「いま、雑誌ジャーナリズムが危機に瀕している。というより、『死に体』といってもよいかもしれない。……一時は16億部近くあったコミック誌も2007年には半分以下の7億部余となり、『週刊ヤングサンデー』(小学館)や『月刊少年ジャンプ』(集英社)など、休刊が相次いだ。同様に08年以降、月刊誌の休刊も続いており、『月刊プレイボーイ』(集英社)、『論座』(朝日新聞社)、『月刊現代』(講談社)に続き、『諸君!』(文藝春秋)もまた消える運命にある。」(「瀕死の雑誌ジャーナリズム」2009・3・15)。
今から見れば、代表的な論壇誌が、音を立てて消えていく最初の大きな地滑りであり、この傾向がやむことはなかった。
2011年3月11日には、東日本大震災が起こり、続いて福島第一原発で事故が起こった。「被災 誰に何を伝えるか」(5・04)にはこんな一節がある。
「被災メデイアの一つに夕刊紙・石巻日日新聞がある。同市を本拠とする来年百周年の歴史を持つ地域紙で、震災直後に手書きの『壁新聞』を発行し避難所に掲示したことで、一躍有名になった新聞でもある。もちろん、発行を絶やしたくないという執念は見事なもので、それ自体がニュースであることに違いはないが、むしろその根底になる編集方針を、今日のデジタル時代におけるジャーナリズムを考える素材として紹介しておきたい」
そうして悲劇や美談は扱わず、徹底して被災状況と生活情報に絞ったのである。すべてのメディアがストップした時、石巻日日新聞は壁新聞として唯一、人々の役に立ったのである。
この年にはまた、大阪府で「君が代」を歌う時には起立せよ、ということが決まった(国歌斉唱起立条例)。「君が代・日の丸合憲判決」(6・11)のコラムでは、かつては小渕恵三首相も野中広務官房長官も、国旗の掲揚に関してはなんの義務も考えていない、と言っていたことを指摘する。これはそれほど昔じゃない、と言うか、みんな覚えていることだ。だから、「君が代」を歌う時の態度をここまで捻じ曲げて強制するとは、開いた口が塞がらない。
2012年には、自民党が憲法の改正草案を発表している。僕の見るところ、憲法を守らなければならないのは天皇・国会議員・公務員のみで一般の国民に義務はない、ということが抜けているために、この改正草案はおよそ頓珍漢なものだ。「改憲で進む権利制限」(5・12)などを読むと本当にひどい。まったく噴飯ものだが、しかし無知が大勢を占めているとどうなるかわからない。あー、やだやだ、ではすまないから恐ろしい。
そして年末には、第二次安倍晋三内閣が成立する。2013年年初の「安倍政権と報道の自由」(1・12)は、メディアの規制や、放送の自由への介入など、悪夢と見まごうばかりの光景を、覚悟しておいた方がいいと指摘する。
この年はまた、「秘密保護法案」(9・14)がせり出してくる。新聞や雑誌、テレビの記者が公務員と接触し、知り得た秘密を聞きだすのは当たり前の取材行為である。それは形式的には犯罪行為に該当するとしても、「正当な取材行為」として法律違反に問われることはない。これが、知る権利に基づく取材・報道の自由ということである。
けれどもここに一つの落とし穴がある。その「正当な取材行為」を判断するのは、検察または裁判所なのである。だから沖縄密約漏洩事件では、新聞記者は、倫理違反を理由に有罪判決を受けた。こんなことを理由にしたら、秘密を洩らした者と、漏らされた者とが、同時に罰を受けることになってしまう。著者も言うように、これは恐ろしいことだ。
2014年には朝日新聞が、従軍慰安婦の「捏造」記事と、吉田所長の福島第一原発調書(正式には聴取結果書)をめぐって、袋叩きに会う。保守系の面々は、ここを先途とばかりに、朝日新聞の廃刊を言い立てた。そのときの依ってきたる基盤は、ずばり「国益」だった。おぞましいことに、一挙に70年前に戻ったのである。
2015年になると、著者の憂いはますます濃くなる。そのことは見出しの内容が、一段と深く、広く、深刻になったことで分かる。「編集と経営の分離」(1・10)、「ジャーナリズムの任務」(2・14)、「公権力とテレビ」(4・11)、「報道の外部検証」(5・09)、「世論調査の意味」(8・08)など。こう見てくると、日本の民主主義は風前の灯火であることが、嫌というほどよく分かる。
そして2016年。2月に高市早苗総務大臣が、「法に基づき電波停止はあり得る」と、国会で電波停止に言及した(「政府言論とメデイア」2・13)。もはやテレビにおいては、「表現の自由」は息の根を止められ、死んだにも等しい。そして報道ステーション、NEWS23、クローズアップ現代のキャスターがそろって交代し、また参院選で改憲勢力が3分の2を占めた。
以上が、ここ数年に起こったことである。安倍政権はこれからも続いていきそうだから、もっと悪いことが起こるだろう。今はそれを、ただ記憶するしかない。
なおこの本は、各コラムの末尾で、それと関連する本書中の他のコラムが参照されている。例えば、今年の「政府言論とメデイア」(2・13)の最後に、〔参照:12年1月/14年11月/15年2月〕というふうである。これは大変便利だが、付ける方は大変な思いをしただろう。しかしお陰で大助かりである。また各年の初めに簡単な年表がついている。これも実に役に立つ。
こういう工夫のすべてが、「この近過去だけは、絶対に忘れない!」という帯の文句を、そのまま実現している。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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