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[1]学問・文学・平和活動だけが貴いのか

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

 今年度のノーベル文学賞に、シンガー・ソングライターのボブ・ディランが選ばれたことが、先ごろ大きな話題となった。しかしその後しばらくディランが受賞について沈黙を守ったことで、いろいろな憶測が飛びかったようである。

ノーベル博物館内の店にも、ボブ・ディランさんに関する書籍が並んでいたノーベル賞授賞式を前に、スウェーデン・ストックホルムのノーベル博物館内の店には、ボブ・ディランに関する書籍が並べられた
 結果的にディランは受賞を受け入れたが、私が見るところ、ディランの受賞およびその沈黙の両者について、典型的な二つの反応があったようである。どちらもノーベル賞を再考するのに、よいきっかけを与えてくれたと思う。

 典型的な反応の一つとして、作詞家・歌手が賞をえたことで、同業者(特に前者の)ないしそれに近い場にいる人が、自分たちの地位があがると欣喜雀躍した、という。

 もう一つは、文学賞選考委員長のそれである。同委員長は、ディランが何の反応も示さない事実にいら立ち、ディランを「無礼で傲慢だ」などという苦言を呈したと、広く報道された。

 だが、いずれもノーベル賞なるものについて、考え違いをしているのではないかと思えてならない。

ディランの受賞は作詞家の地位を高めたか?

 前者の反応は、作詞家の間から出されたものである。彼らの間にはディランの受賞を喜んでいる人が多いようである。文学賞が小説ではなく詩(むしろ歌を前提とした作詞)に与えられたことで、詩人(むしろ作詞家)の地位があがるというのである。『ニューズウィーク』日本版(2016年10月25日号)が、そうした観点からディランの受賞を喜ぶ人について報じている。

 もし彼らが、それまで自分たちの営みの価値が(十分に)認められなかったと感じていたとすれば、喜ぶ気持ちは分からないではない。だがむしろその感じ方は、ディランがノーベル賞を受賞したことで、はじめて自覚されたのではないか。あるいは、強められたのではないか。ノーベル各賞の範囲外に、とはいえ各賞の周辺にある分野では、そうした自己評価へのゆがみが発生しやすいように思われる。

 しかも問題は、賞をもらうことで地位があがる営みは、今後ふたたび関係者が賞をもらうという幸運に恵まれなければ、かえって自らの地位を低下させることになるという点である。

ノーベル賞の対象にならない営みに価値はないか?

 さらに、自分の業界がノーベル賞によって認められたと思ったとたんに、今度は、ノーベル賞で認められない他の多様な営みを、無価値あるいは低価値と決めつけたことにならないだろうか。

 そもそも世の中には、ノーベル賞などと無縁でも、すばらしい人間的な営みがたくさんある。ノーベル賞で地位があがったと思う人は、それらはどれもすばらしくない、ノーベル賞がもらえなければ価値は認められない、と考えているだろうか。「否」と答えても、自らの行動・発言がそれを裏ぎっている。

 はっきり言うが、ノーベル賞などたいしたものではない。「文学」も

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