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映画『この世界の片隅に』片渕須直監督に聞く

空を見上げて生きる普通の暮らしの愛おしさ

叶精二 映像研究家、早稲田大学・亜細亜大学・東京工学院講師

逆境から奇跡的大ヒットを達成

 長編アニメーション映画『この世界の片隅に』の大ヒットが続いている。こうの史代氏による同名漫画をベテランの片渕須直監督が6年半を費やして映画化。戦中の広島と呉を舞台に、18歳で嫁いだ主人公すずとその家族の日常を丁寧に綴っている。食糧難、空襲の激化、原爆投下、そして敗戦へと至る最悪の状況下にあっても、毎日、炊事洗濯を行い、笑顔で生き抜く庶民の暮らしには、東日本大震災を経験した70余年後の我々の日常とも響き合う奥深さがある。

 失われた広島や呉の風景や暮らしの再現、穏やかな日常から空襲の恐怖までを的確に捉えた画面構成、余韻を感じさせる仕草の柔らかさ、水彩画や心理的イメージが動き出す驚きなど、全編が新しい発見に満ちている。手描きの線でとらえたキャラクターの温かさと背景美術の柔らかさが融合し、実写や3D-CGとは異なる親しみとリアリティがスクリーンから立ち上る。まさにアニメーションの底力を痛感させる力作である。

「この世界の片隅に」 (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会拡大『この世界の片隅に』 (c)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

 昨年(2016年)11月12日にわずか63館で公開されたが、年末には上映館が119館まで拡大され、未だロングランが続いている。2017年1月4日には「奇跡の目標」と言われていていた興行収入10億円を突破、観客動員も75万人を超えた。

 評者という評者から「2016年度ベストワン」の満点評価が相次ぎ、各地の上映館は満席、上映中は笑いと涙、上映後は拍手がわき起こる。観客の支持は広く深く熱烈で、口コミは瞬く間に広がり、リピーターも続出。観客たちがヒット作に育てあげたという側面を持つ。

 しかし、本作は大手各社から配給を拒絶され、テレビ各局の予告CMも皆無、製作費はわずか2億5000万円に設定された。当初、本作の「クラウドファンディングによる予算獲得」が話題を集めた。クラウドファンディングは、確かにパイロット(試作)フィルム制作や客層開拓、配給会社へのアピールなど様々な功績をあげたが、それで実製作費が捻出出来たわけではない。調査・取材費用は当初は自己負担、スタッフは少数精鋭。従来の大作映画とは真逆の制作・宣伝・興行体制であった。こうした逆境を跳ね返した本作のヒットは驚くべき特例であり、今後の映画興行の新しい展望をこじあけたとも言える。

 本作の核には、「良い作品を制作して一人でも多くの観客に届けたい」という制作者たちの情熱が脈打っている。公開後も舞台挨拶や取材に応じて全国を奔走する片渕須直監督に、本作の脚本と演出、キャスティングとアフレコ、音楽、宣伝と興行など幅広く伺った。

映画『この世界の片隅に』公式サイト

片渕須直(かたぶち すなお)
1960年生まれ。日大芸術学部映画学科在学中に宮崎駿監督作品『名探偵ホームズ』に脚本家として参加。『魔女の宅急便』(1989年)では演出補を務めた。T Vシリーズ『名犬ラッシー』(1996年)で監督デビュー。監督・脚本作品に『アリーテ姫』(2001年)、『BLACK LAGOON』(2006年)、『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)など。1998年の短編『この星の上に』でザグレブ国際アニメーション映画祭入選。2002年、『アリーテ姫』で東京国際アニメフェア長編部門優秀作品賞を受賞。2009年、『マイマイ新子と千年の魔法』でオタワ国際アニメーション映画祭長編部門入選。2016年、『この世界の片隅に』で広島国際映画祭第1回ヒロシマ平和映画賞、ヨコハマ映画祭作品賞を受賞、同映画祭ベストテン1位選出。

片渕須直監督フィルモグラフィー拡大片渕須直監督フィルモグラフィー

口コミ・SNSによる急速な拡散が観客動員に反映

――『この世界の片隅に』の大ヒット、おめでとうございます。片渕監督の作品はこれまでも高い評価を得ていましたが、なかなか観客動員に繋がらない状態でした。本作では、それがようやくかみ合ったと申しますか、全てがプラスに作用したように思うのですが。

片渕須直監督拡大片渕須直監督=撮影・筆者
片渕須直(以下、片渕) ありがとうございます。試写による評価の広がり方には幾つかの段階がありました。まずマスコミ試写で情報発信側に立つ人たちに観てもらって、高い評価を頂くことが出来ました。

 それから1カ月経ってから一般の方々に観てもらえるようになりました。つまり、評価や情報に接してから観て下さった方も多かったわけです。さらに、その方々が個人個人でご感想を発信してくれました。それが初日のお客さんに繋がっていったのだと思います。

――高い評価が拡散し、幅広い動員に繋がったという、まさに理想的な経過ですね。

片渕 評判は高いけれどお客さんは来ない、逆にお客さんはたくさん来るけど、中身はどうなんだろうということはよく聞きます。今回それ(評価と動員)がかみ合ったということは大変嬉しいことです。

 驚いたのは、自分たちが予想していたよりも観客の方々の反応のスピードが速かったことです。反応から行動までに半日かからないんですね。「こんなに(お客さんが)入っているのなら、自分たちも観てみよう」と、初日の午前中の反応が午後には現れていました。プロジェクト全体としての見込みでなく、あくまで個人的な意見ですが「3週間から1カ月くらいしないと口コミは広がらない」と思っていたので、びっくりしました。

――その後も著名人から一般の方まで、感想や評価が毎日ネット上に大量にアップされて、更に動員が拡大するという現象が続いています。片渕監督ご自身も連日ツイッターで感想に即応され、情報発信を続けていらっしゃいますね。

片渕 SNSやブログなどで皆さんが次々と反応を上げて下さいました。予期しない観点やそれぞれの言葉の選び方などに触れると、本当に報われた感じがしました。反応が上がって来るたびに、徹底してリツイートしました。本当は他人の意見で自分のタイムラインを埋めてしまうのは余り良いことじゃないと思うんです。情報発信といっても公式でなく個人的なものですし、僕のフォロワーの方々はタイムラインで他の方のリツイートばかりを読まされることになるので、迷惑かも知れないなぁと思っていました。

――むしろ喜ぶフォロワーさんの反応が多かったように思います。

片渕 そうなんですよ。「たくさんの人が反応してくれて嬉しい」と受け取ってくれたフォロワーの方がたくさんいて下さったんです。そこで、ある種の達成感とか一体感を持って下さったように思います。

――片渕監督は、2年前に「この作品は普段アニメーションを観ない観客層、特に高齢者の動員が鍵だ」とおっしゃっていました。いざ公開されると、まさにそうした客層の動員に成功しているわけですが、それは周到に対策を講じた結果と言えるのでしょうか。

片渕 実は、具体的な対策を考えないうちに公開されてしまったんです。高齢者の方の反応は初日から良かったんです。新聞で大きく採り上げて下さったことが大きかったんだろうとは思いますが、口コミだけではないような気もしています。何に反応して下さったのかは自分たちではよく分かりません。後々確認した方がいいだろうと思っています。

――高齢者の方々の動員は、SNSによる拡散だけでは説明出来ませんよね。

片渕 40代以上の子供と70代以上の親御さんという親子連れが多いようなのです。我々50代からすると、親が戦中派ですよね。あえて親に見せてあげようと思う人もいるでしょうし、親や祖父母はこんな風に生きていたのかと改めて話をしてみたくなったといった反応もあるようです。幅広い世代のお客さんが、それぞれの立場で家族や周囲に勧めて下さっている。そういう結果なのかなとは思います。

3年前から「のんちゃんなら任せてもいい」と思っていた

――主人公・北條すずさんの声を女優のんさんが熱演されていらっしゃいます。のんさんは声優の経験もなく、大胆なキャスティングだったと思いますが、結果は大成功でした。起用の経緯を教えて頂けますか。

こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会拡大提供=こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
片渕 この映画を作るにあたって、何よりも心がけたことは「すずさんを本当にいる人のように描き出したい」ということでした。

 こちらは、すずさんという人にもの凄く思い入れて作っていたわけです。一人の登場人物として、ひたすらその人生を愛でていたいという感じでした。

 だから、そこまで入れ込んでいるすずさんの声を誰に任せても「違う」と感じてしまったわけです。そのためオーディションでは決められず、ずっとすずさんの声を探していました。2013年にテレビで『あまちゃん』に主演していた能年玲奈(現・のん)さんを見た時に、すずさんと出会った感じがしたんです。

――片渕監督は、当時『あまちゃん』のご感想を毎日ツイートされていましたね。

片渕 番組のファンだったというよりも、「ひょっとしたらすずさんになってくれるかも知れない人が出ている」という感じがしたので興味を持って見ていたんです。

――テレビを見ていて偶然のんさんを発見したと?

片渕 それはちょっと違うんです。浦谷(千恵)さん(『この世界の片隅に』監督補・画面構成、片渕監督夫人)が趣味でダイビングスクールに通っていたんですね。そうしたらある時、インストラクターから「今後このプールはNHKの連続テレビ小説の役者さんたちの練習所として貸切になるので、練習はお休みになります」と言われまして、しばらく通えない時期がありました。それで「どんなドラマだろうね」と話していたら、それが『あまちゃん』だったんです。

 そのインストラクターの人たちは、岩手県久慈市の水中シーン撮影にも潜水指導として参加されていました。潜水シーンの撮影が終わってスクールが再開された時に、記念としてロケ地の久慈市へ行ってウニ獲り体験をしようというツアーがあったんです。まだ番組が放映中のことでした。これに夫婦で参加しまして、現地コーディネイターの方を紹介してもらって、番組撮影中の話などを色々と伺うことが出来たんです。

 のんちゃんの印象も聞きました。「スタッフジャンパーを着てうつむいて座っていて、とても主役に見えなかった」とか「出演者の大人たちは夜スナックへ飲みに行ってしまうけれど、一人だけ未成年なので行けない。それでも彼女はスーパーで総菜を買って楽しそうにホテルで食べていた」とか(笑)。多少つらいことがあっても楽天的でニコニコしていられる人なんだなぁと思いました。その頃から、夫婦でどちらから言うでもなく「この人なら任せてもいい」という気持ちになっていったんだと思います。この人だったら許せる。この人がやってくれるのならすずさんがウソの存在になることはないと思いました。

――まさに念願叶ったご出演だったのですね。

片渕 ええ。気づけば3年間、ずっと彼女が気になって応援していたんです。

右手を失って自らの言葉を語ることが出来たすずさん

――実際にアフレコを行ってみていかがでしたか。

のんさん(右)と片渕須直監督=広島市中区平和記念公園拡大のんさんと片渕須直監督=2016年10月、広島市中区の平和記念公園で
片渕 のんちゃんは、すずさんという人物を一生懸命演じてくれました。(片渕監督と)たくさんの質疑応答を繰り返して、深く理解して、役作りしたいという気持ちをこちらに向けて来ました。

 最初の頃に「すずさんの心の中に何か疵(きず)のようなものがあるのでしょうか」という質問を受けました。のんちゃんは、一見のどかに見えるすずさんの中にも必ずあるはずのそうした疵を核として演技を作り上げていこうと思ったようです。

 こちらからは「すずさんはおそらく自分が空っぽだと思っている。それをさらけ出すことが出来なくて、何かを喋ろうと思ってもうまく話が出来ず、いつもニコニコ笑っている。でも、すずさんの本当の想像力は心の床下にしまい込まれていて、それを専ら右手で絵を描くことで表現している。絵が描ける能力は素晴らしいのに、そのことに気づかず誇ることもない。もしすずさんの心に疵があるとしたら、自分は大したことがない人間だと思い込んでいることだろう」と話しました。

――そう言えば、すずさんは家族以外の他人との会話の台詞が少ないような気がしました。

片渕 すずさんの台詞の半分は「心の声」として発しているモノローグなんですよ。それが絵を描いて表現する手段を失うことで大きく変わっていくんですね。

 ラスト近くですずさんが夫の周作さんに「ありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて」と言う台詞についてのんちゃんは、「ここはすずさんの口が動いていて、心の声になっていません。今までのすずさんは、周作さんの前でこういうことを絶対に口にしない人だと思って役作りをして来たんですが」と言って来たんです。確かに、それまでのシーンでは、こうした台詞は心の声としてモノローグで描いてきたんですね。

――とても鋭い質問ですね。このシーンは原作ではすずさんの横顔で描かれていて、夫婦で向き合って会話しているのかどうかがよく分かりません。どのように応えたのでしょう? ・・・続きを読む
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筆者

叶精二

叶精二(かのう・せいじ) 映像研究家、早稲田大学・亜細亜大学・東京工学院講師

映像研究家。早稲田大学・亜細亜大学・大正大学・東京工学院講師。高畑勲・宮崎駿作品研究所代表。著書に『日本のアニメーションを築いた人々』(若草書房)、『宮崎駿全書』(フィルムアート社)、「『アナと雪の女王』の光と影」(七つ森書館)、共著に『王と鳥 スタジオジブリの原点』(大月書店)など。

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