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[書評]『狂うひと』

梯久美子 著

中嶋 廣 編集者

女と男の絡み合う果て  

 これは様々な意味で、読者に覚悟を要求する本だ。読み出すと、もはや引き返すことのできなくなる本だ。

『狂うひと——「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子 著 新潮社) 定価:本体3000円+税『狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子 著 新潮社) 定価:本体3000円+税
 『死の棘』は単行本が30万部を超え、純文学では異例のベストセラーになった。出てすぐに奥野健男や吉本隆明が絶賛し、文庫版『死の棘』(新潮社)に山本健吉が解説による讃を寄せる。

 島尾敏雄・ミホは文学史に残る伝説的カップルになったが、著者はその「虚像」を、一歩一歩事実を積み上げ突き崩していく。

 特攻隊長の島尾敏雄と女教師のミホは、奄美群島の加計呂麻島で、戦争も押し詰まった時期に出逢い恋に落ちる。昭和20年8月13日、敏雄が特攻隊として出撃する夜に、ミホも命果てんとする。しかし出撃命令はついに訪れなかった。

 批評のことで言えば、ミホを「島長の娘」や「南島の巫女」と呼び、「島尾=近代的インテリ、ミホ=古代そのままの自然人」とする構図が広く流布しているが、著者はこの憶測を完膚なきまでに打ち壊す。ミホは東京の高等女学校を出ているし、また結婚の約束をする昭和20年には26歳で、島尾の父などは少し年がいっていると渋面をつくっている。いずれにしても戦時下の非常の恋はここで終わり、以後これとは別の日常が始まる。

 紆余曲折を経てミホは敏雄と結婚するが、神戸では奄美の出身というだけで、いわれのない差別を受けたという。そのうちミホは妊娠するが、敏雄は女と遊び歩き、しかも日記にそのことをこれ見よがしに書くので、だんだん体調は悪化し、このときは出産を諦めざるを得なくなる。それでも昭和23年には伸三が生まれ、25年にはマヤが生まれた。

 昭和27年、一家は東京に移る。そして島尾の愛人が現れ、『死の棘』の世界が始まる。『死の棘』は、夫の日記を読んだ妻が「発作」を起こしたところから始まる。しかし、このとき日記に書きこまれていた「十七文字」が、どんなものであるかは遂に明かされることがない。また島尾の日記は、わざと目につくところに置かれていた可能性があるという。

 島尾はそれまでしばしばそういうことをしておいて、ミホの反応を見て、それを小説に書いた。しかしこのときは違った。ミホは激しい発作を起こし、島尾はうろたえて、ミホの言いつけを死ぬまで守ることを誓った。でも、と僕は思う。こんなことが、きつい言い方をすれば、都合よく起こるのだろうか。

 ミホが千葉県市川市の国府台病院の精神科に入院していた昭和30年8月19日、島尾敏雄が書いた血判入りの誓約書がある。この病院には敏雄も一緒に入院している。「至上命令 敏雄は事の如何を問わずミホの命令に一生涯服従す」。こういうことを、どう考えればいいのだろうか。

 ミホが亡くなった後、著者は遺品の中に古い原稿用紙の束を見つける。それは島尾の原稿の書き損じだったが、ふと裏を見返すとミホの文字がある。

 「『ミホ、僕とお前はひとつなのだ、僕が苦しむ時はお前だって苦しむのは当り前だ、「カサイゼンゾウ」だって、「カムライソタ」だって、みんな芸術のためには戦場にしたんだ。芸術をするものは安楽になんて暮せないんだ。岩の上でも、地獄の果てまでも、お前と子供は僕と一緒なんだ、芸術の女神はしっと深いからね』。こういっていた夫の言葉をそのまゝに信じ、務めなら私はよろこんでそうしよう、それはむしろ妻の誇りとさえ思えたのです」

 夫の投げた直球は、妻のあまりにも正面に、音を立ててやって来たのだ。作家が全力投球した球を、妻もまた17年にわたって打ち返し続けたのだ。「島尾は今度こそ、なまなましい手応えのある悲劇を手に入れることができた。ミホはみずからの正気を犠牲として差し出すことで、島尾が求めた以上のものを提供したのである」。

 ミホがある「女性像」を演じながら、それが自分自身であると信じ込むようになるのはたやすいことだった。「だからこそあのような壮絶な狂い方をし、献身する妻から狂気によって夫を支配する妻へとあざやかに変身を遂げることができたのである」。つまりこれは意識下であったにせよ、夫婦合作の「共狂い」だった。

 島尾敏雄とミホは病院を出た後すぐに奄美に帰る。故郷の荒れ果てた様を見たとき、彼女にとっての戦後が終わり、それとともにようやく狂気の「発作」も収まってゆく。しかし島尾のミホに対する従順の意志は徹底していて、終生変わらなかった。

 『死の棘』では「書かれる女」だったミホは、奄美に移ってからは「書く女」に転じる。ミホには、『海辺の生と死』(中公文庫)と『祭り裏』(中央公論社)の2冊の創作集がある。はじめの『海辺の生と死』は田村俊子賞を受賞しており、2冊目は本格的な創作集で、第27回(1988年度)女流文学賞の候補になっている。

 ところが島尾敏雄が死んでしまうと、やがてミホの姿は二つに引き裂かれてしまう。「『愛された妻』として文学史に残りたいという欲望と、本当のことを書きたいという欲望の両方をミホは持っていた。それは、妻から見た『死の棘』を書こうとしたときにミホを引き裂くことになる……」。結局のところ、ミホは「書く女」ではなく、「書かれる女」として残ることを決意する。

 それにしても島尾敏雄とミホとは、結局どういう関係だったのだろうか。何度も言うように、島尾とミホは絶妙の組み合わせだった。「島尾が機会を提供し、ミホはそれを逃さなかった。二人は凹凸が嚙み合うように、みごとに呼吸のあった夫婦だったといえる。そしてミホは何をしても許される生来の地位を取り戻し、島尾は家庭内にこれ以上ない小説の素材を手に入れた」。

 けれども、意外なところに反逆者がいた。島尾とミホの、言葉による絶妙の組み合わせをあざ笑うかのように、いや、もっと強烈に、身内でありながら、子供の段階から言葉を失っていった者がいたのである。「『少しも手のかからない子供』だったマヤは、小学校三年生のころから言葉を発しなくなった。言葉によって結ばれ、言葉をめぐって闘争を繰り広げた夫婦の娘は、長ずるにつれて言葉を失っていったのである」。ミホと敏雄にとって、このくらい強烈な批判はないだろう。二人とも、そのことはよく分かっていた。だからといって、どうにもできるわけではなかったが。

 見ようによっては、限りなく愚かしい男女の道行きを、しかし梯久美子はどこまでも張りのある文体で描いた。梯久美子に、このようなことを可能にしたものは何か。全編を読み終わって、それが最も気にかかる。

 考えてみれば、男と女の恋物語は、それが醒めやらぬ恋であるかぎりは、ただ行き着くところまで行き着くしかないではないか。男女が、あるいはそれを錯覚であると無意識に思っていたとしても、もうどうしようもなく、ただ男と女の絡み合う果てまで行くしかないではないか。

 私の空想は果てもなく、さらにその先まで行く。ミホと敏雄の、一生を賭けることになった恋をつややかな文章で描いた著者は、その奥に、書かれることのなかった自らの恋を秘めていたのではないか。私の空想は、全編を読み終わった後も、ながくそのあたりを彷徨って出られなかったのである。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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