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[書評]『俳句と暮らす』

小川軽舟 著

松本裕喜 編集者

普段着の俳句案内  

 書店のコーナーで見ればわかるが、俳句や短歌の本には入門書が多い。作り方のいろはを教えるもの、名句を鑑賞するもの、季語や切れなど俳句の文法を解説したものなど内容はさまざまだ。本書もその一冊なのだが、「中高年サラリーマンに向けた」俳句入門であるところが、本書のユニークなところだ。

『俳句と暮らす』(小川軽舟 著 中公新書) 定価:本体780円+税『俳句と暮らす』(小川軽舟 著 中公新書) 定価:本体780円+税
 著者のスタンスははっきりしている。俳句は日々の生活から離れた趣味の世界にあるのではない。日々の生活には、平凡であってもかけがえのない思い出や記憶がつまっているはずだ。その思い出を大切にしまい、引き出してくれるのが俳句だというのである。以下、章を追ってこの本の中身を紹介してみよう。

 人の日常でいちばん大きなのは、飯を食うことではないだろうか。単身赴任で一人暮らしの著者は自炊を楽しんでいる。自炊は面倒ではあるけれど、季節の食材のほとんどは季語になっている。旬の食材を自分で買い自分で台所に立つと、季節が実感できる。男子も厨房に入って台所俳句を作ればいいのだ。サラリーマンで食いしん坊だった草間時彦は「秋刀魚焼く死ぬのがこはい日なりけり」と晩年に詠んだ。(1 飯を作る)

 いうまでもなく、サラリーマンは会社で働かなくてはならない。俳人も俳句で飯を食うことはできないから、たいていは定年まで働く。「銀行員等朝より蛍光す烏賊(いか)のごとく」と詠んだ金子兜太も55歳の定年まで日銀に勤めた。

 しかしサラリーマン生活を詠んだ俳句は意外と少ないようだ。自分の仕事を一度突き放して客観的に眺めるのが難しいからであろうか。「梨剝く手サラリーマンを続けよと」「サラリーマンあと十年か更衣」は著者のサラリーマン俳句。1句目で梨を剝いていたのは奥さん、2句目は著者51歳の句。そう簡単に会社を辞められるものではないのである。(2 会社で働く)

 著者の単身赴任は5年目で、神戸から家族のいる横浜へ月2回平均で帰る。2012(平成24年)の時点で単身赴任者は全国で99万人、サラリーマンの50人に一人が単身赴任者だという。著者の場合、子供の転校を避けて単身赴任を選んだ。たまに会うようになって妻に会うのが新鮮で楽しくなったというから、ものは考えようということだろうか。

 「吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか 中村草田男」「妻がゐて夜長を言へりさう思ふ 森澄雄」など夫が妻を詠んだ名句は多い。一方、妻が夫を詠んだ名句はめったになく、あっても夫が死んでから後の句だそうだ。(3 妻に会う)

 俳句をすると散歩が楽しくなる。私たちが生きている時間は前へ前へと進む時間だが、一方で、春、夏、秋、冬、そしてまた春へと循環する時間もある。暦では2月のはじめに立春が来る。2月初旬はまだ冬の寒さなのだが、俳句では立春が来るともう冬の句は詠まない。マフラーと手袋をして散歩しても、道端の日だまりに小さな春草を見つければ、著者は「平凡な言葉かがやくはこべかな」と、また春を迎えることの喜びを詠む。日々の小さな発見から俳句が生まれるのだ。(4 散歩をする)

 俳句に句会は不可欠だ。一人でただ俳句を作っていても、その五七五の言葉がほかの人にどれだけ届くかわからない。句会に出し読み手(句会の参加者)の評価を受けて、初めてその俳句の良し悪しがわかる。俳句はそういう文芸なのだ。句会の後はたいてい飲み会になる。その飲み会で著者の師・藤田湘子は「君達の頭脳硬直ビヤホール」と詠んだ。先輩の小澤實には「酒飲んで椅子からころげ落ちて秋」の句がある。句会後の置酒歓語も俳句の世界なのだ。(5 酒を飲む)

 俳句は病気と相性がいいという。短いからあまり体力が残っていなくとも一瞬でぱっと詠める。そもそも近代俳句の生みの親である正岡子規が脊椎カリエスのためずっと病床にあった。「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」と他人事のように子規は自分を写したが、肺結核に苦しんだ川端茅舎は「咳き込めば我火の玉のごとくなり」と率直に自分を表現した。また「秋の暮溲罎(しゅびん)泉のこゑをなす」と病院のベッドでする小水の音を泉に見立てた石田波郷の句、「爽やかに俳句の神に愛されて」と死に到るかもしれない自らの発病(白血病)を詠んだ田中裕明の句もある。こうした俳人たちが最後までユーモアと詩情を持ち続けられたのは俳句の力なのか、本人の性格によるものなのか。(6 病気で死ぬ)

 芭蕉は漂泊の詩人として知られるが、著者は家で一人暮らしをする芭蕉にスポットライトを当てる。日本橋から深川の芭蕉庵に移り住んだ芭蕉は、自分を乞食の翁と呼び、「あさがほに我は飯食ふ男哉」「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」と日常をそのまま素直に詠んだ。「野ざらし紀行」「笈の小文」「奥の細道」と芭蕉は数年おきに長旅に出かけるが、いつか肩の力が抜け、自然体で生活するようになっている。「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)」の句では、身近な日常の言葉のなかに詩を詠み込もうとした。それが芭蕉の「軽み」だと著者はいう。(7 芭蕉も暮らす)

 飾らない自分の言葉で俳句の魅力を語った本である。少し物足りないくらい難しい言葉は一切使っていない。ちょっと俳句が気になる中高年層の背を「日々の暮らしを詠めばいいのですよ」とそっと押してくれる、そんな俳句案内の本だ。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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