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[書評]『神田神保町書肆街考』

鹿島茂 著

野上 暁 評論家・児童文学者

書物と学問への熱情が堆積した特異な街の近代史  

 なぜ神保町が、世界にも類を見ない古書の街になったのか。それを「産業・経済・教育・飲食・住居等々の広いコンテクストの中におき直して社会発達史的に鳥瞰してみよう」というのが著者の目論見であり、そこから日本の近代の特殊性を照射する。なかなかエキサイティングな大著である。

『神田神保町書肆街考——世界遺産的“本の街”の誕生から現在まで』(鹿島茂 著 筑摩書房) 定価:本体4200円+税『神田神保町書肆街考――世界遺産的“本の街”の誕生から現在まで』(鹿島茂 著 筑摩書房) 定価:本体4200円+税
 徳川幕府は江戸城周辺に直轄用地をたくさん持っていた。五代将軍綱吉の時代、江戸城の鬼門を鎮めるために、神田橋から錦町、一ツ橋に至る広大な土地に護持院を建立する。

  護持院は享保2年(1717)、江戸の大火で一帯が焼失した後、火除け地となり、護持院ケ原と呼ばれていたが、この一角に、安政3年(1856)、幕府の洋学機関である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)が開設される。

  蕃書調所は、はじめ洋学所という名称で計画が進められていた。それがなぜ、蕃書調所になったのか。当時の最高学府としては湯島に昌平黌(昌平坂学問所)があった。しかし幕末の外圧にともなう西洋の学問の必要性から、洋学研究所が作られることになる。

  それに対して昌平黌の林大学頭や攘夷論者が横槍を入れたらしいと著者はいう。朱子学系の漢学者や攘夷論者にとって、西洋の学問書などは「野蛮」だということで、「蛮書」と呼ばれた。さすがに幕末ともなると「蛮」は露骨すぎると思われたのか、「蕃書」となったらしい。そこに和洋の確執があったのだ。

  これが、洋書調所、開成所とたびたび改称され、英仏独語から西洋の諸学が取り入れられ、木版印刷から活字印刷技術を習得し、フランス語やドイツ語の語学教材が印刷されるようになる。日本を一気に近代化する画期的な教育・研究機関だった。

  しかも、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる中で外国人教授を雇うことが不可能だったことから、すべて日本人スタッフで賄ったというからすごい。この段階で既に、「人間(外国人教員)」からではなく「書物(洋書)」から外国の知識を吸収しようとする、日本的な学問研究の特徴が確立したと著者はいう。この書物信仰とでもいえるメンタリティーは明治以降も現代まで受け継がれるのだ。

  開成所は幕府の崩壊により明治政府に接収される。事務局の場所も転々とした後、明治元年(1868)12月、もともとあった護持院ケ原にもどされて、校名も開成学校として学生を募集し、翌年1月に開校する。これが明治における高等教育の始まりであり、神田神保町が本の街となる歴史の1ページとなる。

  開成学校は、その後も大学南校、東京開成学校と名称変更し、様々な曲折を経て、明治10年(1877)に東京大学となる。そのくだりでは、『高橋是清自伝』などをはさみ、東京大学誕生までのドラマが展開される。この年、現在の一橋大学の前身である東京商業学校も一ツ橋に開校する。またそれに先立つ明治6年(1873)には、開成学校から分かれて、東京外国語大学の前身、東京外国語学校が、一ツ橋に誕生している。こうして明治初年代には、神田神保町周辺に国立大学やその予備門が開設され、学生の街となる。

  学生の街に古書店が登場するのは自然の流れでもあった。当時は、江戸時代からの名残で、書店や出版社は銀座や日本橋に多かった。しかし、江戸時代から続く排他的なギルド組織である書林組合にとらわれずに書物を商うことが可能になったことや、新刊書と古書を一緒に扱うことが禁止されたこともあって、学生たちのニーズに応えるかのように神保町に古書店が次々と登場する。

  現在も神保町にある書店・出版社の中で最も古いのは明治10年(1877)創業の有斐閣である。次が明治14年(1881)の三省堂書店で、いずれも古書店としてスタートしている。明治10年代に創業された、有斐閣、三省堂書店、冨山房、東京堂書店、丸善を起こした早矢仕有的(はやし・ゆうてき)の個人経営による中西屋書店など、それぞれの創業者にまつわる話はいずれも興味深い。

  また明治10年代から20年代へと、時代とともに移り変わる神保町と書店の様子が、『東京古書組合五十年史』や反町茂男の『紙魚の昔がたり  明治大正篇』などをもとにあざやかに描き出される。

  明治17年(1884)以降、東京大学が逐次本郷に移転していき、その後、他の国立大学もそれぞれ郊外に移転する。一方、明治10年代から、明治大学、法政大学、中央大学、専修大学、日本大学などの前身となる法律専門学校が神保町周辺に開校し、学生の数は減るどころか増える一方となった。各私学の誕生と予備校や専門学校ができるプロセスも詳細に描き出され、そこに夏目漱石と神田のエピソードが組み込まれる。

  神保町はたびたび大火に見舞われたが、とりわけ大正2年(1913)の大火は一夜のうちに三崎町から神保町、猿楽町一帯を焼き尽くす。この大火が岩波書店の創業とつながっていく話もなかなか面白い。

  日清戦争の後、中国人留学生会館の類が神保町周辺に設けられることから、現在のすずらん通りからさくら通りにかけて中華街が形成される。こうして古書店街は中華料理店街ともなる。神保町で学んだ中国人はたくさんいる。そこで「中国共産党の揺籃の地」の一項も立てられる。

  「古書肆街の形成」では、古書店の変遷と、古本の学校の役割を果たした一誠堂と反町茂雄にまつわるエピソードのそれぞれから、神保町古書店の複雑に絡み合った人脈図と、脈々と続く古書店経営の現在も見えてくる。

  神保町は意外に知られていないが、かつては映画の街でもあった。神田パノラマ館、新声館、錦輝館、東洋キネマ、シネマパレス、銀映座、神田日活館、南明座などなど。筆者の学生時代には、東洋キネマも南明座も神田日活館もまだあった。宮沢賢治が神田日活館で映画を見たことを「神田の夜」という詩に残していたのは初めて知った。東洋キネマは平成になっても建物は残っていた。『突破者』の宮崎学が、ここの地上げで1億円ほどもうかったという話も滑稽だ。

  小学館・集英社の一ツ橋グループの今昔、「現代史の揺籃期」と題された書肆ユリイカや昭森社、思潮社など小出版社の話、古書マンガブームからオタク化する神保町へと、戦後から現代へとめまぐるしく変容する神田神保町。

  幕末から現代まで、書物と学問への熱情が幾重にも堆積した世界的にも特異な地勢である神田神保町を、膨大な資料と様々な記録や証言をもとに描き出し、「ちくま」連載中から話題を呼んでいた論考が、なんと560ページを超える大著となって刊行された。著者の濃密な古書愛と神保町愛に裏打ちされた、それぞれに精緻な叙述が読み手を圧倒する。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。