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[書評]『負債論』

デヴィッド・グレーバー 著 酒井隆史 監訳 高祖岩三郎 佐々木夏子 訳

木村剛久 著述家・翻訳家

想像をかきたてるラディカルな本  

 借金やローンは悩みの種だ。借金なんかしなければよかったと思っても後の祭り。家や車がほしかったり、教育資金や事業資金が必要だったりと、借金には人さまざまな理由がある。商売がうまく立ちゆかず、負債に悩んでいる人も多い。板子一枚下はまさに借金地獄。それなのに、国が1000兆円以上も借金をかかえながら、ひとごとのように平気な顔をしていられるのは、なぜか。

 本書の著者、デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家としても知られる。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォール街占拠運動の理論的指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。

『負債論——貨幣と暴力の5000年』(デヴィッド・グレーバー 著 酒井隆史 監訳 高祖岩三郎 佐々木夏子 訳 以文社) 定価:本体6000円+税拡大『負債論――貨幣と暴力の5000年』(デヴィッド・グレーバー 著 酒井隆史 監訳 高祖岩三郎 佐々木夏子 訳 以文社) 定価:本体6000円+税
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。だが、ほんとうにそうなのかと問うところから、著者の探求ははじまる。

 そもそも負債、借金とは何か。

 負債は貨幣で計算され、貨幣で返済を義務づけられる。だとすれば、負債の根源には貨幣がある。著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのが一般市民ではなく、金融企業すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。

 それにしてもすごいのは、本書が負債のもととなる貨幣の歴史を、5000年さかのぼって古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。

 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。その神話を著者は疑う。なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、観念上の操作でしかない。

 世界の歴史をたどれば、人類が物々交換をおこなっていた形跡はどこにもみあたらない。分かち合いや贈与、広い意味での貸し借りはあったけれども、物々交換はなかった。実際に物々交換らしきものがおこなわれたのは、かえって近代になってからであり、貨幣崩壊が生じた戦後の混乱期などにかぎられる。

 経済学の考え方は、当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられていたが、次第に金属が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていったというものである。だが、それは貨幣のほんとうの歴史ではない、と著者はいう。

 スミスもマルクスも、国家から市場社会を切り離して、経済理論を構築した。そのため、商品の物々交換から貨幣が生じ、さらに貨幣が資本をつくりだしたと考えた。そうではない。商品から貨幣が生まれるのではなく、貨幣があるからこそ商品が出てくるのだ。

 スミスが市場社会ユートピアを構想したのにたいし、マルクスは市場社会ディストピアを暴きだした。スミスは資本の拡張が豊かな社会を生みだすと考えたが、マルクスは資本の蓄積こそ貧富の拡大と社会の分裂を招くととらえた。そのため、スミス流では資本の拡張、マルクス流では資本の解体が求められる。

 だが、著者によれば、スミスもマルクスもまちがっているということになる。実際には、スミスは国家なき市場社会を理想とし、マルクスは市場社会なき国家(プロレタリア独裁国家)を理想としているのだ。その前提となったのが、貨幣は商品交換ないし物々交換から生じたという考え方である。そうでないとすれば、貨幣はいったいどこから生じたのだろうか。

 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚によって発明され、都市に貯蔵される物資を集めたり分配したりするのに用いられた。その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるし(仮想貨幣)だった。

 貨幣をつくったのは国家にほかならない。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配布し、それで食料品をはじめとする物資を調達させた。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれたのだ。国家と市場はつきものであり、国家なき社会は市場も持たないと著者はいう。

 メソポタミアでは、神殿の役人が商人たちを国外に派遣し、羊毛や皮革を売らせて、国に足りない木材や金属を買わせていた。そのため仕入れの前貸しとして渡されたのが貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。

 やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。貨幣と市場は国家によって生みだされ、人びとは国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと著者は考えている。そして、負債もまた貨幣とともに発生した。

 貨幣の歴史は負債の歴史でもあり、血と暴力によっていろどられている。それを象徴するのが奴隷制だ。奴隷制は古代から存在した。戦争と債務が奴隷を生みだした。奴隷は貨幣によって売買される。メソポタミアも古代ギリシアもローマ帝国も奴隷制の上に成りたっていた。

 ふたたび奴隷制が復活するのは近世になってからである。16世紀から18世紀にかけ、1000万人以上のアフリカ人奴隷が大西洋の向こうに輸送されていった。奴隷制は人間が商品となる貨幣経済時代の到来を象徴していた。そこにはかならず暴力が介在していた。貨幣はけっして純粋無垢ではない、と著者はいう。

 ところで、貨幣といわれて、まず思い浮かべるのは金属貨幣だろう。世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。まもなく地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺でも、ほぼ同時期に硬貨の鋳造がはじまる。

 硬貨のもつ意味は大きい。硬貨は金属のかたまりであるけれども、そこには数と像がきざまれており、一片の金属以上のものとして流通した。問題は硬貨の保証が主に都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりに戻ってしまう。遠方交易はそうした硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。とはいえ、金属としての硬貨が出現することによって、貨幣は世界貨幣への一歩を踏みだしたといえる。

 著者が貨幣の出現以来5000年の歴史を5段階に分類し分析しているところが、本書後半の読みどころである。仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界史は次のように区分される。(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)(2)枢軸時代(前800年—後600年)(3)中世(600年—1450年)(4)資本主義時代(1450—1971年)(5)現代(1971年以降)。

 この壮大な世界史を詳しく紹介するわけにもいかない。だが、一般的に世界史においては、国家が弱体な時代と強大な時代がくり返し生じ、それにともなって貨幣が仮想貨幣になるか金属貨幣になるかが決まるという。金属貨幣の時代は、国家が強大化し、奴隷制と人間の商品化が進展する時代でもあった。

 著者によれば、資本主義が生まれるのは、15世紀後半、ヨーロッパにおいて、国家から特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社が武装し、海外で冒険をはじめたときからである。国家なき純粋な資本主義など、最初からありえなかった。1520年から1640年にかけ、ヨーロッパにはアメリカから途方もない金銀が流入し、価格革命を引き起こした。その結果、物価が上昇し、囲い込み運動によって農民は土地を追われ、海外植民地に行くか、国内の工場で働くかのどちらかを選ばねばならなくなった。

 著者は、アメリカ大陸に侵攻し、アステカ帝国を倒し、世界史上最大の窃盗行為をおこなった、借金まみれのコルテスの行動こそが、資本主義の原型だったと述べている。そのアメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいった。スペイン人はインディオに重税を課し、支払いのできない者にカネを貸し、返せないものを負債懲役人にしていった。

 資本主義をもたらしたのは国家権力である。国家は市場をつくり、人びとを働かせ、貨幣なしには暮らしていけないシステムをつくりあげていく。そこでは貨幣の暴力が作用し、負債に縛られる人が数多く生まれる。

 紙幣をつくったのも国家だといえる。1694年にイングランド銀行が設立され、はじめて生粋の紙幣が発行された。国王による負債を認める見返りとして、商人たちが銀行券発行の許可を得たのが、そもそものはじまりである。したがって、紙幣とは国家による約束手形のようなものだといってよい。信用されなくなれば、たちまち紙切れになってしまう。

 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とする。5パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っている。そうした一種の強迫観念が生まれたのは19世紀はじめではなく、むしろ1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期だった。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置のもとで、ヨーロッパ諸国家の海外進出がはじまった。

 資本主義とは貨幣の循環的拡大をめざす国家システムなのだ。それは債権者が次々と債務者をつくりだし、貨幣を回収しつづけることで、はじめて成り立つシステムだといってもよい。それを媒介するのが商品である。貨幣はけっして媒介ではない。労働者は給料どろぼうと指さされないように、一生懸命ものをつくり、売るためにはたらく。そう考えれば、経済学者が称賛するのとは裏腹に、資本主義はずいぶん倒錯した経済モデルだということができる。

 いつも回転しつづけていなければ倒れてしまう資本主義というシステムは不安定で、常に時限爆弾の恐怖につきまとわれている。順調な成功を収めると思えた瞬間に、なぜかがらがらと崩壊しはじめるという「黙示録」的な見通しを、著者は資本主義にいだいている。

 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトンウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまった。これが新しい時代の扉だったことはまちがいない。現在は過渡的な時代だ、と著者はいう。アメリカの時代が終わるのか、新しい中世がくるのか、これから先はなかなか見通せない。変動為替制になったいまも、ドルが基軸通貨であることに変わりはなく、むしろ、これまで以上にドルに振り回される通貨体制ができあがっているかのようにみえる。

 しかし、なにかがはじまっている予感は、仮想貨幣の広がりをみてもわかる、と著者はいう。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまるのは1990年代になってからだ。仮想通貨が国家紙幣をのみこんでしまう時代が訪れようとしている。

 いまはどういう状況にあるか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいる。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなった。好き勝手に通貨を創造しようとしたアメリカの力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまった。いまアメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国だ。とりわけ中国の役割が見逃せない。

 戦後のケインズ時代には生産性と賃金が上昇し、消費者経済の基礎がつくられた。だが、1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は実質的に低落していった。マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化した。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになった。

 個人の負債は、けっして放縦が原因なのではない。カネを借りなければ、まともな生活などできないのだ。家族のために家を、仕事のために車を、その他、教育やさまざまな楽しみのためにカネをかけてはいけないのだろうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずだ。すると、どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいということになる。その結果、だれもが罠にはまった。2008年のサブプライム危機が発生したのだ。このとき政府が救済したのは一般市民ではない。金融業者は税金で救済された。だが、一般の債務者には自己破産という苛酷な仕打ちが待っていた。

 資本主義は終わりそうだという見通しに直面したが、そのオルタナティブはまだ想像の外にある、と著者はいう。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、国家は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をさらに強化しようとしている。加えて、グローバル化の進展が、先進工業国の停滞(とりわけ中産階級の没落)と新興国民国家の躍進を生み落とし、それが双方のナショナリズムをかきたてているのだ。

 しかし、いまでも現在の経済活動に秘められているのは自己破壊衝動でしかなく、統制不能の破局が生じる可能性は低くない、と著者はいう。だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められている。だとすれば、「いま真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者は論じる。

 著者は、聖書にえがかれたヨベルの律法のように、国際的債務と消費者債務を帳消しにせよと求める。借金を返せという原理は、はれんちな嘘だという。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と宣言している。

 『負債論』は世界じゅうに大きなインパクトを与えた。世界を想像しなおすことを求めて、本書は終わる。読みやすいとはいえないが、さまざまな想像をかきたてるラディカルな本である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

木村剛久

木村剛久(きむら・ごうきゅう) 著述家・翻訳家

共同通信社で長く書籍を編集し、『妻たちの思秋期』(斎藤茂男)、『もの食う人びと』(辺見庸)のほか、『マクナマラ回顧録―ベトナムの悲劇と教訓―』(R・マクナマラ)、『現代史』上・下(ポール・ジョンソン)などを手がける。自身の訳書・共訳書に『国民の天皇』『紀元二千六百年』(共にケネス・ルオフ)など、著書に『蟠桃の夢―天下は天下の天下なり―』(トランスビュー)がある。