「新学習指導要領案」が軽視する思考力・理解力を高める教育
2017年03月10日
「『ブラック企業』という言葉は『黒人』を差別する――『英語』の悪しき含意から身を解き放とう」(WEBRONZA)で書いたように、「英語」ではなく「イギリス語」と表記したいが、以下、通常の言い方を尊重して「英語」で通す。
近年、大学を含めて「英語」で授業を行うことをもって「国際化」だと称する傾向が強まっている。従来、外資系企業や商社などが、グローバリゼーションの流れのなかで、英語の話せる社員を養成してきたが、その役割を大学を含めた教育機関に担わせようという思惑の結果が、今日の状況であろう。
この流れは2000年代に文部科学省が作ったようだが、その後企業の文科省への攻勢が強まり、そして2010年、「ユニクロ」などを傘下にもつ持株会社ファーストリテイリングや楽天による英語の「社内公用語化宣言」が流れに火をつけた。そしていま文科省は、その種の動きを楯に、ますます無定見な方向に突っ走っている。
だが、「国際化」とは、英語を話すことをもって達成されるとするのは、単視眼的な発想にすぎない。まして英語による授業を行うことがその手段だという発想には、あきれてものが言えない。
国際化とは、どんな言語を使うかとは無関係に、何語によってであろうと、国際的な視野をもち、国際的な評価に値するような能力・実績をもつ人材を育てることであろう。そうした人材を育てるためには、新しい発想を得る直観力と同時に、論理的にものを考える思考力、多様な対象を分析し的確な範疇にまとめあげる理解力が、圧倒的に重要である。
だがそうした思考力・理解力を養うために必要なのは、英語を話し・聞くことではなく、なによりも母語を駆使する能力を陶冶(とうや)することである。私たちは母語によってものを考え、母語によって事柄を理解しようとする。小さな相違・複雑で微妙な意味内容等を理解し、それを下に新たな知見を導く思考力を鍛えるためには、母語の能力そのものを鍛えることが決定的に重要である。
なるほど日本語の文献・資料がないときに、外国語(例えば英語)のそれによって事柄を理解しようとすることは重要であろう。それによって視野が広がり理解が深まるのは確かである。だがそれはあくまで補助的な手段であって、創造の核となる理解・思考は母語でこそ可能になる。
仮に英語で考えようとしても(あるいは話そうとしても)、少しく複雑な事柄を、あるいはかなり英語ができる人でも微妙なニュアンスの事柄を表現するのは、非常にむずかしい。そのとき私たちは、結局は母語に頼らざるを得ない。母語なら、過不足なくたいていのことは表現できる。
とするなら、英語力を身につけるより、始めから母語の能力を鍛える方が、合理的である。英語の訓練に非常に多くの時間をかけるより、母語の、すなわち日本語の能力の陶冶に時間を割く方が、はるかに創造的な仕事ができる(厳密には日本語のうちにも多様な「方言」があり、むしろその方言を母語と感じる人も多いが、ここでは英語との対比を第一に考え、細かな議論には立ち入らないことにする)。
しかも英語を重視するとしても、一般の人にとっては、話す・聞く能力よりも読む・書く能力を高める方がどれだけ有用かしれない。話す・聞く能力がついても対話ではふつう対話者一人、あるいは会議等で一堂に会した一定数の人を相手にするだけだが、読む・書く能力はあらゆる時代・あらゆる地域の膨大な英語文献を相手にできる。
読む・書く能力を身につけるためには、現状の教育制度で基本的に問題はない。にもかかわらず大学から小学校まで、英語で授業をするのを当然視すれば、その分、読む・書く能力を高める機会はかなり失われる。
大学で英語だけの授業が重視されるようになってからまだ日は浅いが、しかし会話重視の傾向はもうかなり前から強まっている。そのせいか、今の大学生の英語読解力はかなり落ちているという印象を、私は受ける。そうだとすれば、英語での授業が増えることは、ムダというより弊害が多い。
そもそも、読むことと、聞く・話すこととは、全く異なる訓練を要する別物である。特に聞くためには、おそらく生後そう遅くない時期から、当の言語を集中的に耳にする機会が必要である。だが、そういう機会を得るのは一般に非常に困難であるし、そもそもそういう機会・能力を誰もが必要とするわけではない。誰にとっても必要なのは、むしろ読む・書く能力、特に読む能力である。
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