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若松孝二『実録・連合赤軍』舞台化の生々しさ

究極の密室劇、今も刺さったままのトゲの痛み

大友麻子

若松プロダクション、スコーレ株式会社拡大舞台は赤軍派の新倉ベースに革命左派が合流したところから始まる。森恒夫(右から2人目)によって「水筒問題」が提起され、革命左派への批判がスタートする (c)若松プロダクション、スコーレ株式会社

 未だに「総括」できない痛みとして、戦後史に刺さったトゲとも言うべき「連合赤軍事件」。その痛みが、生身の肉体となって私たちの目の前に現れた。一つの事件が、今、東京・新宿3丁目の小さな劇場空間で起きている。

 ベトナム戦争、パリの5月革命、日米安保反対闘争など、世界がうねりをあげていた1960年代。学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、安田講堂封鎖、神田解放区闘争、三里塚闘争、沖縄返還闘争など、農民や労働者とともに社会変革を目指して勢いを増していった。

 活動家たちの逮捕が相次ぐ中、先鋭化していった若者たちは追い詰められ、都市アジトから山岳ベースへ。そこから、1972年2月、テレビ視聴率89.7%、日本中の目を釘付けにした「あさま山荘」での銃撃戦へと至る。その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速した。

 なぜ、革命を志した若者たちは、あそこまで追い詰められていったのか。
 なぜ、同志に手をかけなければならなったのか。
 なぜ、敗北が明らかな銃撃戦を展開したのか。

 いくつもの大きな「なぜ」と、多くの人に深い傷を残したまま、昭和史の中に埋もれようとしていたこの事件を「実録」として描いたのが、映画監督・若松孝二(1936―2012)の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2008年公開)だった。

 常々「映画に時効はない」と語っていた若松が、「彼らが何に怒り、立ち上がり、全てを捨てて闘おうとしたのか、権力側からの視点ではなく、実録として作品を残す」と、自ら費用を捻出して製作、さまざまな物議を醸す話題作となった。

無謀とも思える試み、生のコミュニケーションを追求

 2016年4月、若松孝二生誕80年祭企画として、あの作品の完成から10年を目がけて、若松プロダクションが、この『実録・連合赤軍』の舞台化に挑戦した。

 「あの映画を舞台に?」

 多くの人が、この無謀とも思える挑戦の結果を危惧していた。あるいは、同時代を近い場所で生きていた人たちからは「見たくない」という声も聞こえてきた。

赤軍派の植垣康博と進藤隆三郎が星空の下で語り合うシーンは印象的拡大赤軍派の植垣康博(左)と進藤隆三郎が星空の下で語り合うシーンは印象的 (c)若松プロダクション、スコーレ株式会社
 しかし、作品は完成した。私たちの目の前に、肉体が存在して瞬間を生きていた。終わりへ向かって加速せざるを得なかった若い魂たちが、圧倒的な存在感をもって、目の前の空間に立ち現れたのだ。舞台の力を思い知った。

 この繊細かつ大胆な空間をつくりあげたのが、気鋭の演出家・シライケイタだった。「こんな体験は初めてじゃないかというほど、しんどいです」と語っていたシライが、若い20人の俳優たちともがき続けて切り拓いた一つの地平だ。

 稽古場でのシライは、なんども俳優に問い続けていた。 ・・・続きを読む
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