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[書評]『言葉はこうして生き残った』

河野通和 著

中嶋 廣 編集者

大文字で書かれる「編集者」の鋭い筆さばき  

 本を題材に、類いまれな傑作が生まれた。著者の河野通和氏は、季刊雑誌『考える人』の編集長。この本は、彼が毎週発行しているメールマガジンから、37本を選んだもの。しかしメルマガから選んだものというには、あまりに面白すぎるし、また考えさせられもする。時に対象と深く切り結び、時におおらかに、笑いをもって本に接し、その行くところ、出版社の歴史を紐解き、出版人・著者たちの過去から現在に及び、また装幀や誤植、果ては古本、映画など、至らざるはない。

『言葉はこうして生き残った』(河野通和 著 ミシマ社) 定価:本体2400円+税拡大『言葉はこうして生き残った』(河野通和 著 ミシマ社) 定価:本体2400円+税
 さっそく読んでゆこう。

 まずは滝田樗陰である。大正元年に31歳で『中央公論』の編集長になると、執筆者たちは、樗陰の人力車が家の前で止まり、原稿を依頼されることを願ったという。

 「ともかく情熱家、活動家、努力家、並はずれた読書家にして健啖家であり、エネルギーの量がとてつもない人物であったことは誰しも認めるところです」(「燕楽軒の常客」)

 このエネルギーの横溢ぶりはまた、講談社創業社長の野間清治とも相通じるところがある。野間は出版人として傑出していたが、教育者としても優れていた。

 「大宗教家、大文豪、大実業家……とにかく『大のつく者になれ』と刻苦勉励を説き、『裸一貫を男子の本懐とすべし』と、文字通り裸の付き合いを通した野間の言動は、少年たちを強く魅了するものでした」(「“昭和の聖水”を求めて」)

 これを聴いていたのは、講談社の少年社員たちで、全社員の半数を占め、講談社躍進の鍵となった。

 この辺りで河野さんは、歴史上の大編集者と案外近い距離にあることがわかる。

 出版の特別なエネルギーを持った人は、洋の東西を問わない。ジョン・ハーシー『ヒロシマ』(法政大学出版局)トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮文庫)レイチェル・カーソン『沈黙の春』(新潮文庫)は、ウィリアム・ショーンが編集長を務めていた『ニューヨーカー』に掲載された。

 ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)もまた、ここに載った(「ハンナ・アーレント」その1・その2)。これは掲載されるや、アウシュビッツの「悪の陳腐さ」でひときわ有名になるが、一方、ユダヤ人指導者たちがガス室送りに手を貸したことを明るみに出したために、アーレントと『ニューヨーカー』は轟々たる非難を浴びた。

 ショーンの苦境は、アーレントがヨーロッパからの亡命者であり、英語が達者ではなかったことで、倍加する。アーレントは、原稿の表現を問題にする彼に食ってかかり、罵詈雑言を浴びせる。それでも彼は粘り抜く。その胸の内を、河野さんは的確に推測する。

 「『編集者の自由』という先述の言葉に、おそらく尽きるのだろうと思います。書き手たちが『可能なかぎり自分自身でありうるようにしむける義務がある』というひと言です。そこで自らを抑制し、踏みとどまることが、身についた職業倫理――『編集者の自由』だと考えたのでしょう」

 ここまできて読者は、いよいよ河野さんも、大文字で書かれる大編集者の一人であることを、思い知るのである。

 だからたとえば、「石川達三の『生きている兵隊』」事件などは、河野さんにとって戦前のことと忘れるわけにはいかない。

 「私自身はこの事件から六十年以上も後に『中央公論』の編集長職に就きました。そして何度か必要があって、当時の関係者の証言、回想録のほとんどすべてに目を通しました」(「言論統制の時代」)

 該当箇所の切り抜かれた「中央公論」は、かくして再び出て行ったのだが、そこに至るまでの、河野さんの筆さばきの鋭さは並大抵ではない。

 けれども、人は一足飛びに大編集者になるわけではない。河野さんは新米に近い必死の頃を、懐かしく思い出したりもするのだ。その集大成ともいうべき章が、「野坂番のさだめ」である。

 「追跡劇はいつも予想を超えた波乱含みのゲームでした。ラクをしてすんなり四〇枚の原稿を手にすることは一度としてなく、こうした一連の“儀式”を共にすることで、締切のどんづまりに向けて自らの妄想をかき立てていく作家の役づくりをお手伝いしている、といった感もありました。
 追いかけて新潟、山形、神戸……。逃亡先を突き止め、夜汽車で追い、現地で身柄を拘束して、東京へ連れ戻す」

 こういうことは、もうほとんどない。締め切りを守らなけれは、執筆者のリストから消されてゆくばかりだ。けれども、ではあの締め切りを守れない著者がごろごろしていた頃は、なぜコクのある原稿が多かったのか。

 あるいはまた装幀も、味わい深いのがあった時代だ。野坂昭如の『行き暮れて雪』の、雑誌掲載時の挿絵は司修で、単行本の装丁も同氏だった。

 「ぼくには『テキストを深読みする』という“悪い癖”があるとおっしゃる方です。どの作家とも長時間をともにし、舞台となった土地を歩き、それらを滋養としながら仕事をするのが流儀です」(「装幀の奥義」)

 ここには出てこないが、大江健三郎の『「雨の木」を聴く女たち』を装幀したとき、司さんはレイン・ツリーを観るために、メキシコまで出かけて行き、何カ月か帰ってこなかったという。もちろん本の作業は、装幀以外はとっくに終わっており、出版社と著者はひたすら装幀家の帰りを待ち続けたのだ。

 しかしもちろん、息を呑むような話ばかりではない。

 河野さんは、雑誌連載で水上勉さんと北陸を旅したとき、真宗の僧侶・暁烏敏(あけがらす・はや)のゆかりの地を旅した(「『再版』の効用」)。水上さんの書く記事とは別に、3ページのカラーグラビアが組まれていたのだが、事件はそのカラーページで起きた。「暁烏敏」が、すべて「焼鳥敏」になっていたのだ。河野さんは生きた心地がしなかったろうが、しかし周りにしてみたら、おかしいことこの上ない。そして若いうちのこういうことが、編集者の血や肉になるのである、たぶん。

 以上は、この本のごくごく一部を触ったに過ぎない。この本の内容は、あまりに芳醇すぎて、描き切るのは到底無理だ。

 これを、編集長という仕事の傍ら、毎週配信するというのは、想像を絶するものがある。

 『考える人』は4月で休刊になるという(ウェブサイト「webでも考える人」は継続)。河野通和氏が今度はどんな雑誌をやるか、興味津々である。なぜなら河野さんは、おそらく雑誌における最後の大編集者だから。もし河野さんが手を引かれれば、その瞬間、日本の総合雑誌・教養雑誌の命脈は尽きるといってもいい。

 けれども編集長という激務の傍らで、これだけおもしろいものが書けるのであれば、では筆一本になったとき、いったいどれほどのものが書けるのか。そちらもぜひ見てみたい。

 ここから先、河野通和という人の行く先は、しばらく目が離せないのである。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

中嶋 廣

中嶋 廣(なかじま・ひろし) 編集者

1953年生まれ。新卒で入社した筑摩書房はすぐに倒産。9年後、法蔵館へ移籍し、『季刊仏教』を編集しつつ、『上山春平』著作集や養老孟司『カミとヒトの解剖学』などを編集。2001年、トランスビューを設立し、池田晶子『14歳からの哲学』、森岡正博『無痛文明論』、島田裕巳『オウム』、小島毅『父が子に語る日本史』、チョムスキー『マニュファクチャリング・コンセント』などを手がける。