國分功一郎 著
2017年04月20日
たとえば歩くとき。謝るとき。アルコールや薬物に依存するとき。どんな場合に、「私が何ごとかをなす」と言えるのか。「何かをさせられている」のではなく、「何かをなしている」と言いうるのはどういう場合なのか?
私自身について言えば、有名大学を卒業し、「いい仕事ですね」と羨ましがられることの多い職に就いている。たしかにそれは、誰かから強制されたのではない私のライフヒストリーだが、「自分の意志で獲得してきたもの」だという実感はなく、主体的でなかったことを、引け目のように感じて生きてきたところがある。
自分の意志ほどあてにならないものはなく、自分がいま薬物依存になっていないのは単なる偶然の結果で、何かきっかけがあったときに、意志の力でそうならずにいられる自信はまったくない。
人が何かをするとは、意志をもって行動することであり、ゆえに、人は自分の行動に対して、責任を取らなければいけないと言われる。だが、多くの人は、日常の些細な場面から人生の大きな節目にいたるまで、各人各様に、「する」でも「させられる」でもないことの存在を感じ、「意志」や「責任」というものに大なり小なり懐疑を抱いて暮らしているのではないだろうか。
だから、かつて古典ギリシア語には、「能動態」(する)でもない「受動態」(される)でもない、「中動態」という態があったということには、衝撃的とも言っていい驚きを覚えつつ、心のどこかで深く納得する。
そして、そこには、自分たちが言語化できずに抱えてきた、人生のままならなさを繙(ひもと)いてくれる秘密がひそんでいるのではないかと期待する。本書が、「中動態」という語を初めて目にするような人をもひきつける理由は、そこにあるのではないだろうか。
『中動態の世界――意志と責任の考古学』(國分功一郎 著 医学書院)
中動態は、紀元前1世紀に書かれた、現存する最古のギリシア語に登場する。
それは能動態と受動態という両極の中間に位置するように思われるのだが、そうではない。受動態は中動態から派生したもので、最初にあったのは、能動態と中動態の対立だった。それも驚きである。
では、能動態と受動態の対立において「するか」「されるか」が問題になるのだとすると、能動態と中動態の対立は何か。それは言語学者バンヴェニストによれば、「主語が過程の外にあるか、内にあるか」という問題である。
「能動=主体から発して主体の外で完遂する過程」として、能動態しかない動詞として挙げられているのは、「曲げる」「与える」「食べる」など。「中動=主語がその動作主である過程の内部にいる」として、中動態しかない動詞として挙げられているのは、「生まれる」「死ぬ」「眠る」など。
能動態と中動態の対立が、能動態と受動態の対立、「するか」「されるか」に転じたということは、「意志」の有無が問題にされるようになったことを意味する。言い方を変えれば、「能動態」と「中動態」が対立する世界には、「意志」は存在しなかった。つまり、古代ギリシアには、アリストテレスの哲学には、「意志」の概念はなかった。それもさらなる驚きである。
話はここからさらに深まり広がる。「意志」は「選択」や「意識」といかに違って、いかに存在しえない概念なのか。カツアゲや便所掃除などの事例はなぜ「能動―受動」の枠組みでなく「能動―中動」の枠組みでないと説明できないのか。そもそもなぜ言語の世界から中動態は消え、能動態と受動態の対立が支配的になったのか――。
「まさにそこを質問したかった」と読み手の気持ちを先取りする、「そんな大事な論点が残っていたか」と蒙を啓かせる、「そんな細かいところまで詰めるのか」と感心させられる、本書では、そんな驚きの問いが次から次へと繰り広げられる。ギリシア語文法や、デリダ、ハイデッガー、ドゥルーズなど、正直難しい記述も少なくないのだが、読む気が挫かれることがない。
著者の巧みなリードによって普段なじみのない学問の議論を読み通し、もうひとつ驚くのは、自分がここまで「驚いた」と書いてきたようなことは、決して著者の思いつきとして、本書で初めて論じられるのではなく、古代ギリシアから現代に至るまで、哲学や言語学の分野において営々と続けられてきた、正統な研究史の上にあるということだ。
著者は中動態の痕跡を求めて、ときに2000年前までさかのぼる先行研究を、執拗と言っていいほどに渉猟する。それはまさに、発掘現場で、1本の柱の跡や瓦の破片ひとつから古(いにしえ)の世界を復元する「考古学」だ。人文研究におけるオリジナリティとはかくなるものなのだということに感動し、それとともに、人間が積み上げてきた知の営みに、あらためて頭を垂れたくなる。
先述の問いに戻ろう。では、そもそもなぜ言語の世界から中動態は消え、能動態と受動態の対立が支配的になったのか。著者は、能動態と受動態の対立が支配的になったことは、「出来事を描写する言語」から「行為者を確定する言語へ」という、言語の移行の歴史の一側面なのではないかと述べる。
1万年以上にも及ぶ言語の歴史を俯瞰すると、文法体系上、先にできたのは名詞で、動詞はそのあとに発達した。さらに、人称は非人称(三人称)が先にでき、一人称や二人称はそのあとに発達した。動詞とは行為を行為者に帰属させることを求める言語であり、行為の帰属先に要求されるのが「意志」である。
これは著者の説明の大変乱暴な要約なのだが、乱暴ついでに、私が憶測で思うことがある。人間社会がだんだん複雑になり、「より才覚を発揮し、より努力した人が、より多くの富を手にすることができる」という仕組みで回るようになったとき、求められるのは、「この成果は誰の働きによるものか」という評価だろう。そのような社会には、能動態―中動態の言語より、能動態―受動態という、行為者を明確にする言語のほうがフィットするのではないだろうか。
著者は本書でたびたび例証しているが、能動態―受動態の枠組みは、言語表現としては、不便で不正確なものである。しかしそれは、成果を競い合う社会には適したものであり、ビジネス書の定番・経営者の成功物語で、強い意志を持つこと、意志を貫き通すこと等々、「意志」の重要さがことさら強調されるのも、そんなことの果てにあるのかもしれないと、思ったりする。
本書で繰り広げられる中動態の世界への旅の最後は、著者のホームグラウンド、スピノザである。ここで著者は、スピノザの言う「自由」を、「中動態」の概念をもって読み解き、スピノザと新たな出会いを果たす。実は、私が持っている本書は、著者のサイン会で購入したもので、サインと並んで、「新しい自由の哲学を求めて」というメッセージが書き添えられている。その意味は、本書を最後まで読んでわかったのだが、ここではそれは記さない。
ただ私は本書を通して、人生を、「する」と「される」、「意志」と「責任」の物差しでジャッジするのとは違う視点を手に入れることができた。それは、ささやかだけれど、たしかな自由であり解放である。これから本書と出会う読者の方々に、そのことはお伝えしたいと思った。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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