学芸員は「雑芸員」。的外れな大臣発言をいい機会に根本の議論を
2017年04月25日
山本幸三地方創生大臣が「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」という発言をしたというニュースを読んで、実は「懐かしいなあ」「とうとう大臣まで言うようになったか」とある種の感慨を覚えた人はいるのではないか。
もちろんこの発言の基本には、ほかの安倍内閣の大臣の問題発言と同様に「一人勝ち」首相が広める前例のない傲慢さがあり、国立の文系学部はいらない、というような、政界だけでなく官僚や財界にまで広がる「反知性主義」があるのは言うまでもない。しかし「学芸員」をめぐる発言には、もっと長い歴史がある。
というよりも、日本では「学芸員」の数が長い間少なかった。美術館や博物館自体があまりなかったからだ。
戦前は博物館だと東京、京都、奈良の国立博物館、美術館は公立の東京府美術館、京都市美術館、大阪市立美術館、私立の大原美術館くらい。戦後は1950年代に東京国立近代美術館、公立の神奈川県立近代美術館、私立のブリヂストン美術館ができたのがおもなところ。
では展覧会がなかったかというと、そうではない。多くは百貨店を会場に新聞社が主催していた。作品を調査研究して収蔵するのではなく、借りてきて展示してポスターやチラシを作るだけならば、新聞社の文化事業部員でも百貨店の催事担当社員でも慣れればできる。現に今でもそれは一部で続いている。
かつてフランスのポンピドゥー・センター内にある国立近代美術館のジェルマン・ヴィアット館長が「雨後の筍のよう」と評した日本の美術館建築ラッシュは、1970年代の栃木県立美術館あたりから始まり、80年代から90年代にピークを迎える。黒川紀章や磯崎新らのスター建築家がデザインする美術館が、全国各地に、県立、市立、はては区立や町立まで作られた。現在では博物館法に則った登録博物館・美術館が900超、文学館や水族館など「博物館類似施設」を加えると6000近くある。この数はもちろん世界一だ。
80年代や90年代に新しくできた美術館・博物館は、いつも揉めていた。その一番は地方の公立美術館で、「東京から来た若い学芸員がワケのわからないものを展示する」というもの。だいたい地元の画壇の大御所が、近くの公立美術館で自分たちの絵を展示せずに難しい現代美術を展示するのに怒って、議員と組んで抗議するパターンが多かった。
そして問題の学芸員が、中学や高校の先生や教育委員会に「異動」させられるケースもあった。優秀な学芸員は揉め事を起こし、多くは辞めて大学教員への道を選んだ。
冒頭に「懐かしいなあ」と書いたのは、
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