メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

無料

 2022年のフランスでイスラム政権が誕生する顛末(てんまつ)を描いた、ミシェル・ウエルベックの『服従』(大塚桃訳、河出書房新社、2015、河出文庫版:2017)。フランスはもとより世界各国で大きな反響を呼んだ、近未来小説の傑作である。

ミシェル・ウエルベック拡大ミシェル・ウエルベック『服従』(大塚桃・訳、河出書房新社/河出文庫版あり)
 もちろん、ウエルベックは人気、実力ともに現代フランス随一の作家だから、発売前から『服従』が売れることは見込まれていたが、加えて発刊日がなんと、イスラム過激派による、パリの風刺週刊紙を発行しているシャルリー・エブド社襲撃事件の当日(2015年1月7日:同紙はイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画をたびたび掲載していた)。

 このショッキングな偶然によって売れ行きに拍車がかかり、本書は大ベストセラーとなったが、偶然の一致とはいえ、1作ごとに物議をかもしてきたウエルベックの近著が、あの惨劇の起こった日に発売されたことには、何か運命的な符合さえ感じる――。

“スキャンダル・メーカー”ウエルベック

 ここでの主眼は、4月に「緊急文庫化」された『服従』を、<文学テキストとして>やや詳しく読むことである。

 が、その前にまず、“スキャンダル・メーカー”ウエルベックの作風について触れておこう(『服従』を「文学テキストとして読む」といっても、それは本作に投影された今日のフランス、ひいてはヨーロッパの政治的・文化的状況を無視することでは毛頭ないが、非常事態宣言下での仏大統領選直後のこの時期に本書――右翼の国民戦線党首、マリーヌ・ルペン候補らも実名で登場する――を読むのは、じつに刺激的な読書体験となろう)。

 ウエルベックはクローン人間製造を主題にした、2作目の『素粒子』(1998)で人気作家となったが、ちょっと不思議なのは、彼の小説がけっして万人向きではない点だ。

 ウエルベックの作品は、精妙な描写で読者を魅了する、れっきとした「純文学」であるばかりか、むしろ読者を不快にしかねない、西欧的自由の幻想への痛烈な批判を軸とする、辛辣なペシミズム、ねじくれたシニシズム(冷笑趣味)が色濃い。

 セックスをめぐる赤裸々な、身もふたもない表現も頻出するし、主人公たちに取り憑いているのも、孤独・倦怠・メランコリー(憂鬱)といった負の感情だ。したがって、ウエルベックはひとまず、21世紀きってのデカダン(退廃)作家だと呼べる(こうした彼の作品傾向が、なぜ少なからぬ読者を惹きつけるのかについては、<付記>1で述べる)。

文明批評的な広がりへ

 文学用語の<デカダンス>は、詩人のシャルル・ボードレールを先駆とし、作家のジョリス=カルル・ユイスマンスに代表される、19世紀末のフランスを中心にしたニヒリズムや退廃美の追求を特色とする一傾向を指すが、『服従』の主人公の大学教師はユイスマンスの研究家だ。

 この設定はむろん、ウエルベックがユイスマンスの影響圏にあることを如実に示している。しかし、ウエルベック的デカダンスのユニークさは、人間中心的な西欧普遍主義、共和国的「自由・平等・博愛」、世俗主義、経済的自由競争、それにともなう快楽・快適さの追求というウルトラ個人主義などが、その内部に抱えこんだ矛盾をむき出しにしつつ、退潮し衰微していくさまを、主人公の鬱屈(うっくつ)に重ね合わせて――偽悪的・露悪的に――描き出す作風にある。

 よって、ウエルベック作品のキーワードは、<ヨーロッパ普遍主義/人間中心主義/世俗主義の凋落>だといえる(<世俗主義>とは、政治や個人の行動の規範が、特定の宗教の影響から独立していなければならないとする主張)。

 つまるところ、フェティ・ベンスラマが『服従』について言うように、ウエルベックの小説に通底するモチーフは、「西欧の超自由主義的な秩序への、〔……〕荒れ狂う資本主義・消費主義と科学技術主義との混合への隷従への終わり」であり、ウエルベックが執着するのは、「凋落し、退廃し、衰微し、厄災を運命づけられた西欧世界の表象なの」である(フェティ・ベンスラマ「ウエルベックは陰鬱なジハーディストだ」、松葉祥一訳、「現代思想」2015年3月臨時増刊号<シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の襲撃>、172頁:ただしベンスラマは『服従』を、<小説>としてより、西欧VSイスラム主義という、もっぱらイデオロギー的な論点から解読している)。

 したがって、ウエルベック作品の大きな魅力のひとつは、その世界が主人公の狭い自意識に内向することなく、いわば文明批評的な広がりをもつ点にある(ウエルベックはしばしば、大衆消費社会、民主主義、大革命後の宗教的空白、経済市場や性愛における自由競争のはらむ矛盾や欠陥に、言葉の切っ先を向ける)。

 いってみれば、彼の小説には、主人公の自虐的な思いが描かれるにせよ、太宰治の“生まれて、すいません”的な自意識の空転や肥大、自虐・自嘲の見世物化(つまりナルシシズムの裏返し)とは対照的な、広い射程があるわけだ。

西欧の凋落と主人公の心身の衰弱

 そして、人物の内面(感情、思考、心理、意識)を描く<小さなドラマ>と、彼、彼女らの生きる時代的・歴史的・社会的状況を描く<大きなドラマ>とが、ダイナミックに相乗されて豊饒な作品宇宙――しばしばSF的な――をつくりあげるところに、ウエルベックの真骨頂がある(この点については2014/4/03、同/4/04、同4/07の本欄「ウエルベックの傑作小説『地図と領土』を読む(上)(中)(下)」も参照されたい)。

 たとえば前記『素粒子』には、20世紀後半のフランスの時代状況がこう書かれる――「男〔主人公の一人、分子生物学者ミシェル・ジェルジンスキ〕の生きた時代は不幸で、混乱した時代だった。〔フランスは〕ゆっくりと、しかしあらがいがたく中貧国の経済レベルに転落していった。彼の世代の人間は、たえず貧困に脅かされ、そのうえ孤独と苦々しさを抱えて人生を過ごさねばならなかった。恋だの優しさだの人類愛だのといった感情はすでにおおかた消え失せていた。同時代人たちはお互いにおいてたいてい無関心、さらには冷酷さを示していた〔経済が長期にわたって低迷し、失業率も高止まりしている現在のフランスの社会状況を、SF的にディストピア化して描くウエルベックお得意の書法〕」(1998、<翻訳:野崎歓、2006、ちくま文庫、9頁>)。

 そして、こうしたフランスの没落とパラレルに記されるのは、40歳になった主人公ミシェルの肉体の衰えと、それにともなう彼の憂鬱な思いだ――「自分〔ミシェル〕は<四十代の危機>に陥ってしまったのか?(……)<四十代の危機>とやらは主として性的現象にまつわるもので、ごく若い娘たちの肉体をがむしゃらに追い求めるといった事態を指す。ミシェルの場合、そんなのはお門違いもいいところだった。彼の場合、ペニスは小便の役に立つだけだった」(同前29頁)。

 このような西欧の凋落、そしてそれの反映であるかのような主人公の心身の衰弱、といったモチーフは、むろん『服従』にも引き継がれるが、以上の点をふまえて、次回以降は『服従』の精読を試みたい。 (つづく)

<付記>1
*ウエルベックの小説はそのセンセーショナルな内容ゆえに、1作ごとに話題騒然となり、多くの読者を獲得してきたが、果たしてそれが、作家自身が意図的に狙った販売戦略、つまり“煽情商法”(スキャンダリズム)なのか否かは不明だ。しかしともかく、熱狂と同時に拒否反応を引き起こすのは、いつの時代にあっても型破りな芸術の宿命だろう。

 では、「癒し」の小説全盛の今日、なぜ「反人間中心主義的」で挑発的なウエルベック作品が訴求力をもつのか。その最大の理由は、世の中にあふれる、さまざまな偽善的な建前、噓臭い綺麗事、もっともらしい良識がもはや通用しにくくなっている現実に、一定数の人々が気づいているからではないか。少なくとも、社会の前面を覆う偽善を――いかにもそれらしい「正論」、「政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」を含めて――揶揄(やゆ)するようなウエルベック作品は、少なからぬ読者の心をとらえるのではないか(もちろん、そうした、ともすればタブーに触れかねない挑発的な表現は、ある種の解毒作用、ガス抜き、カタルシス、いわば“毒を以て毒を制する”式の癒しにもなりうるだろう)。

*反宗教的性格が顕著なフランス独特の<世俗主義・政教分離=ライシテ>が確立された歴史的経緯を要約しておこう。――フランスは中世以来、カトリック教会との権力闘争を繰り広げ、フランス革命(1789)によって聖職者階級/第一身分を頂点とする身分制の打倒を目指したが、よって急進的な世俗主義・政教分離――啓蒙主義的理性にのっとった――はフランス共和国の立脚する中心的な理念のひとつとなった。むろん、こうした世俗主義は愛国的ナショナリズム、資本主義的自由、リベラル・デモクラシーとも相即している。

 そして近年、フランス世俗主義の標的は増加するイスラム系移民となったが、それは周知のように、2004年、公立学校の女子生徒がイスラムの宗教的シンボルであるスカーフを被って登校することを禁じた法律の可決、すなわち「スカーフ問題」――イスラムの戒律とフランス世俗主義の文化摩擦――として顕在化した(『服従』には、イスラム政権成立以前の大学構内で、「黒いブルカを身につけ、網状の布で目も隠され」た二人の女子学生が登場する場面がある(前掲『服従』単行本、27頁)。物語の序盤ですでに、ライシテ/非宗教が緩和され、イスラムがいよいよ日常生活に浸透しつつあるフランスの社会状況を、何気なく、しかし印象深く示すディテールだ)。


筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

藤崎康の新着記事

もっと見る