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[書評]『「心の除染」という虚構』

黒川祥子 著

今野哲男 編集者・ライター

「除染先進自治体」の不都合な真実 

 今年(2017年)の2月に公表された「福島県民調査報告書」のデータによると、原発事故のあった福島県では、どうやら小児甲状腺がんを発症する子どもが増えているらしい。原発事故と被爆による健康被害、とりわけ潜伏期のある甲状腺がんとの関連を明らかにするには、長期にわたる誠実な調査活動と詳細なデータ分析が必要なことは言うまでもない。

  そして、それに劣らず肝心なのは、国民レベルで、「君子危うきに近寄らず」という哲学を徹底することだ。つまり、今はまだお題目に過ぎない「脱原発」の掛け声を、国民の力によって、実質的な「国是」と化すことが必須なのである。

  その根拠を問う向きには、(1)3.11以降の原発安全神話の崩壊という事実、(2)核融合反応という重大なブラックボックスがあるという現実(これについては、廃炉に向けた福島原発が抱える想定外の困難が雄弁に物語っている)、(3)唯一の被爆国としての、歴史的にも譲ってはならない矜持へのこだわり、の3点をとりあえずあげておこう。

  そして、市井では、上記の調査データなどがもたらす客観的な意味をより高めようと、様々な立場から仮説や見解が提出され、「脱原発」を「国是」とすべく多くの活動が続けられている。

『「心の除染」という虚構——除染先進都市はなぜ除染をやめたのか』(黒川祥子 著 集英社) 定価:本体1800円+税拡大『「心の除染」という虚構――除染先進都市はなぜ除染をやめたのか』(黒川祥子 著 集英社インターナショナル) 定価:本体1800円+税
 これに対し、政府や官庁、その出先機関としての有識者会議、電力自由化以前からの既存の電力会社などで構成するかつての「原子力ムラ」は、事故後6年を経てほとぼりが冷めたとでもいうのか、今もって健在のようだ。本書にもあるように、難解で一見科学的なデータと詭弁を弄し、「被曝の影響は考えにくい」などという不遜極まりない既定の結論を、相も変わらず言い募っている。

 喉元過ぎて熱さを忘れたわけではあるまいが、我が子の将来を案じる地域住民の重い生活不安などどこ吹く風で、ただ経済原理に従って、隙あらば被爆対策の縮小さえ言い出しかねない勢いである。

 本書は、この2つの不均衡な力がせめぎ合う、福島県中通りの北端に位置する、人口6万ほどの伊達市を舞台にしたルポルタージュである。

 伊達市は、原発の爆発によって発生した放射性プルーム(飛散した放射性物質が風に乗って煙のように流れていく現象)に汚染されたものの、その後の迅速な対策によって、「除染の先進自治体」として注目され、ICRP(国際放射線防護委員会)のセミナーが開かれるまでになった都市だ。

 しかし、本書が強くスポットを当てるのは、その派手なレッテルでも、その下で目立たずに進行した、行政側の「原子力ムラ」を彷彿とさせる確信犯的な既定路線でもない。著者が光を当てるのは、生活者の視点で行政に対してやむなく異議をとなえ、心ならずも少数派になった市民たちの闘う姿だ。

 著者のまなざしは、一貫して地域住民に寄り添う。「子どもたちを放射線から守る」という思いから目をそらさなかった者たちが、「専門」「科学」「政治」といった見えない壁と格闘しながら、迷いつつも何とか生きていく姿、そして彼らがやっと得るに至った一生活人としてのつつましい安らぎを、説得力豊かに描き出している。異なる境遇でそれぞれ違った選択をした5件の家族のケーススタディを軸とし、行政側への取材も多数含んだ、368頁のよく目の行き届いたドキュメントだ。

 以下、本書に描かれている市と住民たちをめぐる実情の一部を、簡単にピックアップしてみよう。

1. 伊達市は、「特定避難勧奨地点」なるものによってできた制度が、実際に施行された自治体だ。施行されたのは2011年6月30日から2012年12月14日の解除通告までの1年半。年間追加被爆線量がある基準(20ミリシーベルト)を超えたと行政が地点(=家)ごとに判断した者に、「避難」を「勧奨」する制度で(「勧奨」だから避難するかしないかはその家の自由)、東電から毎月慰謝料が払われるなどの補償措置があった。これは、たとえば隣同士の家を、選ばれる場合と選ばれない場合に分断する事態を生み出し、原発事故によって疲弊していた地域社会を、さらにズタズタに切り裂く結果につながった。

2. 伊達市は、同市出身で後に原子力規制委員会委員長となった、「ムラ」の一員と目されることもあるT氏の影響下で、「被爆」の程度によって市内をAエリア、Bエリア、Cエリアの3つの区域に強引に分割し、その区分に応じて異なる「除染」を行うというオリジナルな除染方式を採用した(結果的に「除染」経費の削減につながる)。これが、近隣自治体が後に全戸全面除染を実行したにもかかわらず、「除染の先進自治体」の伊達市だけは市内の7割を超える地域(=Cエリア)で全面除染を行わないという事態を生み、ここでも深刻な不公平感を生み出した。

 この2つ以外にも、たとえば、(1)市議会で暴かれるガラスバッジ測定の問題点とその実態(全市民に、本来は原子力作業員専用の正面方向からの被爆しか測定しないガラスバッジと称するカウンターをつけさせ、そのデータを全方向で被爆せざるを得ない市民生活の被爆対策に利用しようというもの。結果的にコスト削減につながるもので、これもT氏の手引きによっている)。あるいは、(2)地域コミュニティの分断と闘う市会議員の活動とその一定の成果。さらには、(3)「除染の先進自治体」だった伊達市の市長が、ついには除染に目をつぶり、「心の除染が大事」「いつまでも被害者ではなく放射能と戦うことが大事」などと言い始め、市政が「被害者の自己責任」という明らかに方向違いの、原子力推進派寄りの声をあげるに至った過程。そして、(4)子どもを被爆から守るため、少数派であることにもめげず、最後まで格闘を続ける者たちの姿――こういった現実が、丁寧に描かれていく。

 因みに著者の黒川祥子氏は『誕生日を知らない女の子 虐待―その後の子どもたち』(集英社文庫)で、第11回開高健ノンフィクション賞を受賞したフリーライターで、出身地が伊達市だという。「はじめに」には、執筆にはいろいろな逡巡があったと断ったうえで、「原発の事故以来、なぜかわからないが身体が軋み、胸が締めつけられ、涙が流れてくる時がある。もしかしたらそこに、私が『書く理由』があるのかもしれない」と書きつけている。

 自宅を離れて暮らす避難者は福島県内外に今も6万人以上(平成29年5月29日 福島県災害対策本部調べ)。報道などによれば、避難先で辛い目に遭っている人は少なくはないはずだ。それを思うと何ともやるせない。3年後にオリンピックを控えて前のめりの今だからこそ、多くの人に読んでいただきたい一冊である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

筆者

今野哲男

今野哲男(こんの・てつお) 編集者・ライター

月刊『翻訳の世界』編集長を経てフリーに。「光文社古典新訳文庫」に創刊以来かかわり、また演劇体験をいかして『セレクション 竹内敏晴の「からだと思想」』全4巻(藤原書店)を編集。ライター、インタビュアーの仕事に、鷲田清一『教養としての「死」を考える』、吉本隆明『生涯現役』、木村敏『臨床哲学の知』(以上、洋泉社)、飯沢耕太郎『戦後民主主義と少女漫画』(PHP新書)など。現・上智大学非常勤講師。