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[18]再び「子殺し」「親殺し」考『晩春』11

末延芳晴 評論家

階段を駆け上がって号泣する原節子

 小津安二郎は、その監督生涯において3回、それも戦後撮られたモノクロ・フィルムにおいて、女が階段を上がって、号泣するシーンを撮っている。

 一つは、本論で取り上げている『晩春』であり、もう一つは、『晩春』の前作『風の中の牝鶏』で、夫が出征中に病気で入院した子供を救うために一晩だけ身体を売った妻(田中絹代)を、復員してきた夫(佐野周二)が階段から突き落とすシーンで、突き落とされた田中は、しばし失神したように身体を動かせないが、やがてよろけるようにして階段に取りつき、一段一段と確かめるようにして階段を這い上ってく。そして、最後は2階にたどり着き、背を向けて坐り、考え込む夫に、「みんなあたしが馬鹿だったんです」、「どうぞあなたの気のすむようにして下さい。ね、あたしは我慢します。どんなことでも我慢します。ね、ぶって下さい。憎んでください。存分にあなたの気の済むようにして下さい」と、激しく泣きながら懇願する。

 それに対して、夫の方は、「おい、忘れよう。忘れてしまうんだ。ほんのあやまちだ。こんなことにこだわっていることが尚俺達を不幸にするんだ。(中略)お互いにもっと大きな気持ちになるんだ。もっと深い愛情を持つんだ……いいな」と妻を許し、二人は強く抱きしめあい、お互いの愛情を確かめ合って、映画は終わる。

 ここでの田中絹代は、突き落とされたうえで、かろうじて這って階段を2階まで上がり切り、夫の許しを請うことで、戦争によって引き受けざるを得なかった「傷=罪」と、夫が兵士として戦場で戦うことで背負わざるを得なかった「傷」と「罪」(それらは、小津自身の戦争体験と重なり合うものでもあったわけだが)とを、夫婦で共通の「負」の体験として共有し合ったうえで、「忘れる」ことで、二人の愛の対関係性を復活させようとしている。

 その意味でも、『晩春』における原節子の、父に裏切られたことによる怒りや嫌悪感に突き動かされて、「階段を駆け上がり」、一人で号泣した行為の意味とは全く違う。

 つまり、『晩春』における原節子の「階段を駆け上がる」行為と号泣の行為は、階段を駆け上がった先に愛の関係性を共有しあえる対象として、号泣するなかで強く抱きあい、共に愛の共同体を作り直して行こうという意志を確認し合う恋人、あるいは夫がいたというわけでもない。

 ありていに言えば、階段を駆け上がり、号泣するという激越な行為は、原節子自身が、愛の対的関係性の一方の当事者である父親から、自分は別の女性と再婚するから、お前はお前で早く見合いをし、結婚して家を出て行ってくれと一方的に宣言されたことで、発作的に取った反発行為に他ならない。原は、自分を裏切った当事者である父親に対する生理的嫌悪感と怒りに駆り立てられ、一刻も早く父親の前から逃れ去りたいという情念に突き動かされて2階に駆け上がり、号泣したのである。

 それ故に、そこには、『風の中の牝鶏』におけるような、戦争がもたらした悲劇的「負」の体験をお互いに共有したうえで、「忘れ」、「許し合う」ことで、お互いが救済され、人間として復活するという感動的メッセージも愛の思想性も、立ち現れてくることはない。

『麦秋』における号泣との違い

 一方、もう一つの、女が階段を駆け上がり、号泣する『麦秋』では、一家の長である菅井一郎とその妻東山千栄子の老夫婦が、間もなく「死の共同体」である「大和(奈良県)の実家に帰ろうというなか、幸福なる家族共同体、間宮家の中心に位置し、親和の関係性の結節点に当たる原節子が、秋田の病院の院長として転任する医師(二本柳寛)と結婚するため明日東京を立つという晩、一家そろって最後の晩さん会が開かれ、二人の孫たちも含めて、すき焼きをお腹いっぱい食べ終わる。そして、しばし楽しい語らいと笑いが交わされ、家族共同体の幸福感が頂点に達したとき、父親の菅井一郎が「いやア、わかれわかれになるけど、またいつか一緒になるさ。……いつまでもこうしてみんなでこうしていられりゃいいんだけど……そうもいかんしねえ……」としみじみと語る。それを受けて、母親の東山から「紀(のり)ちゃん、身体を大事にね、秋田は寒いんだっていうから」と声をかけられ、再び菅井から「ああ、ほんとに気をつけておくれよ……大事にな……そうすりゃ、またみんな会えるさ」といたわりの言葉をかけられるに及んで、感極まって、原の目に涙が浮かび、原は顔をそむけるようにして立ちあがり、廊下に出て、台所に駆け込み、そこで気持ちを静めようとする。しかし、こみ上げてくる情動の勢いに耐えきれず、台所を飛び出し一気に階段を駆け上がり、2階の座敷に置かれた卓袱台の前に突っ伏すように座り込み、全身を震わせ、崩れるようにして号泣する。

 このように、『麦秋』における原節子の号泣が、『晩春』におけるそれと決定的に違い、スクリーンを見る私たちをも全身的に感動させるのは、

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