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[書評]『不道徳な見えざる手』

ジョージ・A・アカロフ ロバート・J・シラー 著 山形浩生 訳

木村剛久 著述家・翻訳家

商品世界のアクセルとブレーキ 

 村上春樹に「パン屋再襲撃」という短編がある(文春文庫)。猛烈に腹の減った「ぼく」は、妻といっしょに、10年前と同じように、ふたたびパン屋を襲撃しようとする。しかし、トヨタ・カローラで東京の街を回っても、昔、襲撃したようなパン屋はみつからない。仕方なくマクドナルドを襲うことにする。散弾銃を見た店長は売上金を差しだそうとするが、「ぼく」はそんなものに見向きもしない。テイクアウトでビッグマックを30個強奪する。

 この物語には、左翼過激派にたいする皮肉を含め、さまざまな寓意が隠されている。いくら猛烈に腹が減っていても、わざわざ武装して、パン屋を襲うこともあるまい。おかねを払って、パンを買えばすむことだ。しかし、「ぼく」はそうしない。暴力によって、直接、自分の欲望を満たす道を選ぶのだ。そう書くと、なんだか深刻な話めいてみえるが、じっさいは軽妙な展開に大笑いしてしまう傑作掌編である。

 イギリスの経済学者、アルフレッド・マーシャルは『経済学原理』を「欲望とその充足」という項目からはじめ、最初に分業論をもちだすアダム・スミスとはことなる新古典派経済学を切り開いた。ありていにいえば、資本は需要があってこそ資本なのだということを示したのだ。

 「パン屋再襲撃」がおもしろいのは、現代経済学の常識を、いわば人類学的にひっくり返そうとしたところにある。商品世界では、人はおかねで商品(財とサービス)を買って、みずからの欲望を満たす。つまり、欲望は直接満たされるのではなく、おかねと商品を媒介にして満たされるのだ。

 でも、それはどこか引っくり返った世界で、自然な欲望は直接、身体と行動によって満たすのがあたりまえだと思うところから、村上春樹は小説の想像力をふくらませている。

『不道徳な見えざる手』(ジョージ・A・アカロフ ロバート・J・シラー 著 山形浩生 訳 東洋経済新報社) 定価:本体2000円+税『不道徳な見えざる手』(ジョージ・A・アカロフ ロバート・J・シラー 著 山形浩生 訳 東洋経済新報社) 定価:本体2000円+税
 本書『不道徳な見えざる手』も、商品世界における欲望をめぐる考察である。

 日本語版タイトルから推察すれば、いかにもアダム・スミスの『道徳感情論』や『国富論』を意識して、自由市場礼賛を否定する一大理論を打ち立てているかのようにみえる。

 しかし、それほど重い論考ではない。なにかと商品を買いこむ、みずからの経済行動をふり返り、現代の経済社会のあり方を考えなおしてみようという程度の軽い経済エッセイだ。その考え方は、公共的役割を重視する新ケインズ派の立場にもとづいている。

 著者はジョージ・アカロフとロバート・シラー。ふたりともノーベル経済学賞の受賞者だ。前に同じく共著で『アニマルスピリット』(東洋経済新報社)を出版している。アカロフは現在の米連邦準備制度理事会(FRB)議長ジャネット・イエレンの配偶者でもある。シラーは金融経済学が専門で、サブプライム危機に警鐘を鳴らしたことで知られる。

 原題は Phishing for Phools だ。Fishing for Fools と言いなおしてみればわかりやすい。「カモを釣る」というわけだ。 Phool は造語だが、Phishing はすでに英語でも日本語でも定着している。すなわちフィッシング。ネット詐欺でおなじみの手法だ。

 本書ではこのフィッシングがもうすこし幅広い意味で使われている。またフールの造語である Phool が、少数の際立つ「バカ」をさすのではなく、ほとんどの人にあてはまる「おバカ」をさしていることにも注目すべきだ。

 ここで論じられているのは、人びとの需要を満たすために、企業(資本)がいかに適切な供給をおこなうかというおめでたい話ではない。資本がいかに欲望と需要をつくりだし、おバカな消費者をカモとして釣りあげているかという告発である。つまり、われわれはだれもがアホなものを買って、いや買わされて、充実した人生を送っていると思いこまされているというわけだ。

 商品世界においては、人は会社員としての顔と消費者としての顔をもっている。消費者としてのわれわれは、いつのまにか消費習慣をすりこまれているし、宣伝や情報にだまされやすくなっている。いっぽう会社員としてのわれわれは、カネもうけがすべてだ。こんな仕事したくない、カネもうけなんかいやだ、と社の命令を拒否する人は、首になるのが落ちだ。

 著者はいう。自由市場はごまかしと詐欺に満ちている。しかし、自由市場に変わるシステムは見当たらない。だとすれば、ごまかしと詐欺に満ちた市場のなかで、消費者はどう身を守り、政府関係者はそれをどう規制し、会社員はそのなかでどうはたらけばよいのかが問われてくる、と。

 取りあげられているのは、おもにアメリカの事例だ。しかし、とうぜん日本にもあてはまる。

 商品世界は一筋縄ではいかない。たとえば自動車、電話、電灯はどれも19世紀末の発明だ。いずれも現代の生活に欠かせないものになっている。だが、スロットマシンがつくられたのもそのころだ。スロットマシンはギャンブル依存症を生み、さらに現代のコンピュータ・ゲームへとつながる。そうしたマシン(最近のスマホも)は、人を中毒させるよう設計されているのだ、と著者はいう。

 現代社会において欲望をつくりだしているのは企業(資本)だ。新たな欲望を引きだす商品に消費者(カモ)が引っかかり、釣り(フィッシング)が成功すれば、企業は特別利潤を得ることができる。自由市場は人がほしいものを生産するだけではなく、「そうした欲求を作り出し、企業が売りたいものを人々が買うよう仕向ける」。

 その仕掛けはじつに巧妙だ。たとえば、スーパーの棚はマーケティングにもとづいて、計画的に並べられている。クレジットカードも誘惑の元だ。「消費者を誘惑して買うように仕向け、お金を使わせるというのは、自由市場の性質そのものに組み込まれている」。この誘惑に打ち勝つには、かなりの自制を要する。

 この80年間に所得が何倍にもなったのに、人がかえって毎日あくせく過ごしているのは、商品世界が「人々に多くの『ニーズ』を生み出し、さらに人々にそうした『ニーズ』を売りつける新しい方法も考案した」ためだ、と著者はいう。だから、所得が増えても、多くの人がローンの支払いに追われ、生活はずっと苦しいままなのだ。

 そして、たとえば広告。広告は人の心にはいりこむ「物語」をつくりだす。その物語は、さまざまな商品が人びとにもたらす奇跡をえがいたものだ。広告は食品から飲料、化粧品、薬、洋服、スマホやパソコン、自動車、住宅、金融商品など、ありとあらゆる分野におよんでいる。広告キャンペーンにさらされていると、人の心のなかには、あれこれの商品イメージが浸透し、あたかも自分が商品の紡ぎだす夢やライフスタイルのなかでくらしているかのような錯覚におちいる。

 しかし、現実はどうだろう。高額のローンを組んで買った住宅に不満を覚えている人は多い。車だって、はたしてどれほど有効に利用しているだろう。食品産業のつくりだす食品は、砂糖と塩と脂肪まみれだ。それが胃腸の病気や糖尿病を引き起こす要因になっている。健康食品がはたしてどれだけの効果をもっているか。製薬会社のつくりだす薬も、重大な副作用をもたらすものが少なくない。なかなか広告どおりにはいかない。

 加えて依存症の問題もある。その代表がたばこ、酒、ドラッグ、ギャンブルだ。たばこと肺がんの因果関係はすでに明らかになっている。アルコール依存に悩む人は多い。深酒は人格を変え、人を傷つけ、健康を損ない、人生を台無しにする。どっぷりつかってしまうのは、スマホやパソコン、テレビだって同じだろう。評判のフェイスブックにしても、いつも自分や友達の記事が気になり、けっこうな時間、振り回されていないだろうか。

 自由市場に利点があることは著者も認めている。だからといって、それを手放しで称賛するわけにはいかない。そこには欠点もあるからだ。

 新しいアイデアが新しい商品(製品やサービス)を生み、消費者の選択肢が増え、そのなかで利潤を生むものが、商品として生き残っていくというのが、市場の原理だ。商品の発展と広がりは、資本や技術(発明)、それに労働生産性の上昇が関係してくるが、商品の種類と量が拡大すれば、経済成長につながる。

 しかし、どんな発明(新商品)も、すべてすばらしいというわけではない。かつて柳田国男が「木綿以前の事」で論じたように、どれほど画期的な商品も、思わぬ影響を引き起こすのだ。

 自由市場は危険市場でもある。それでも自由市場が存続しているのは、いっぽうでその危険に対処しようとする人びとがいるからだ、と著者は力説する。たとえば、自動車や飛行機は危険な商品だ。だが、その安全を守るために、常にさまざまな工夫がこらされ、現在にいたった。

 暴走しやすい自由市場にたいし、安全性というブレーキをかける人びとが存在することによって、自由市場は――言い換えれば現代社会は――はじめて存続可能になる、と著者はいう。アメリカでは、そうしたブレーキ役として、たとえば食品医薬品局(FDA)や全米消費者連盟(NCL)、ベタービジネスビューロー(BBB)のような組織や団体がある。それは日本でも同じだろう。

 政府や裁判所、議会の責任が大きいのはいうまでもない。政府と裁判所は法にもとづいて、詐欺やフィッシング、不当行為、経済的被害などに対処しなければならない。議会は新たな経済問題に対処するために新たな立法をおこなう重要な責務を担っている。

 自由市場は、その市場をチェックし、暴走を阻止する装置があって、はじめて成り立つ、と著者は考えている。社会保障の有効性も否定しがたい。年金や失業保険、健康保険が、人びとの生活不安を軽減している。これからは贈与制度の充実やベーシック・インカムの考え方も重要になってくるだろう。

 市場はそれ自体が諸刃の剣だ。市場が不健全な状態になるのは、けっして外部要因によるわけではなく、市場がほんらいもつ性格によるのだ、と著者はいう。人びとがほんとうに求めているものと、人びとが買おうとするものとは異なる。消費者はいわばカモとみなされている。イメージづけされた商品を買わされているのだ。著者がフィッシングはいたるところにあるというのは、そのことを指している。

 「かなり自由な市場を持つ現代経済は、先進国に暮らす私たちにはこれまでのあらゆる世代がうらやむ生活水準をもたらした」。そのことを著者は認めている。しかし、市場社会にはアクセルだけではなくブレーキも必要なのだ。そして、とりわけブレーキの役割を強調することに、本書の力点がおかれている。

 それでも、ぼくは心の片隅で、資本のつくりだす商品世界がどこか転倒しているのではないか、と疑う。国家が人びとの欲望を統制する社会主義がいいとはまったく思わない。しかし、商品世界がますます発展し、人が24時間はたらいて、あらゆる場所に商品(財とサービス)が豊かにあふれ、次はAIがコントロールする社会がやってくるといわれて、それがはたしてあるべき未来なのかと思うと、いささか気がめいってくる。

 そんなときは、こう考えるようにしている。ほんとうは、未来は「逝きし世の面影」のなかにしかない。未来は過去にあるのだ、と。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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