メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

[19]再び「子殺し」「親殺し」考『晩春』12

末延芳晴 評論家

小津映画において蘇った山中貞雄

 前稿で述べたように、原節子が父の結婚にショックを受けたシーンにおける彼女の演技と表情について、スクリーンでの動きと、シナリオの記述を比べてみると、非常に興味深いことが一つ見えてくる。

 それは、今回、この原稿を書くために『晩春』を再び10回くらい見返して、初めて見えてきたことであるが、階段を駈け上がってきた原が敷居際の襖の左脇に立ち、右の手を上にあげて襖の木枠に置き、その手の甲にうつむいた額を押し当てて立つという、原のポーズと仕草は、小津の畏友であり、弟のように可愛がった山中貞雄の『河内山宗俊』において、やくざの親分に追われて窮地に陥った弟の「広ちゃん」を救うため、身を売る覚悟を固めた16歳の聖処女「お浪」の役を演じた原節子が、文楽人形の所作とポーズを模して、障子の枠に額を当てて、人差し指で涙をぬぐってみせた所作とポーズと、ほぼ完ぺきに重なり合っていることである。

 つまり、この場面、シナリオには、「紀子、駈け上がって来たものの、ここまでくると足が緩くなり、ドッカリと椅子にかけて、じっと考えこむ。と、やがて、周吉が階段を上がって来る気配がする」と書かれているだけで、実際にスクリーンのうえに映し出される原節子のポーズと所作は、シナリオに欠けている部分を補う形で撮られている。小津はその欠落を補うために、昭和13(1938)年9月17日、中国河南省開封市の「北支開封野戦病院」で、赤痢のため戦病死した山中貞雄を蘇らせたということなのだ。

『河内山宗俊』を模倣したポーズと所作

 さてそれなら、小津は、なぜここで、13年前の昭和11(1936)年日活製作の『河内山宗俊』で、16歳の少女女優原節子が、山中貞雄の演技指導で、文楽人形を模して演じてみせたポーズと仕草をわざわざ持ち出して、このシーンを演出したのだろうか。

 考えられる理由は一つ。小津は、初めて原節子を主役に据えてここまで『晩春』を撮り進めて来て、原の自然で、自発的で、当意即妙の演技に心底舌を巻くほど驚嘆し、感服していた。しかし、映画のクライマックスと言っていい、原が泣くシーンで、原にどのように演技をさせ、撮ったらいいか、はっきりしたイメージを掴みかねていたということではないか。

 どう原節子を、カメラのまえで泣かせたらいいか、あれこれ悩む小津の頭にひらめいたのが、畏友山中貞雄が『河内山宗俊』において、町娘「お浪」を泣かせたときのポーズと所作、すなわち文楽人形のようにパターン化した、泣くポーズと仕草を外側から模倣して泣かせるという手法であった。

 すなわち、階段を駈け上がって来た原節子は、【写真1】に見るように、奥の方の部屋の中仕切りの襖の外枠に右手を上げて掛け、うつむいた頭と顔を右手の甲に載せかけるようにして立っている。そのポーズと所作と構造は、明らかに【写真2】に見るように、『河内山宗俊』において、 ・・・続きを読む
(残り:約1585文字/本文:約2949文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
デモクラシーやJournalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

末延芳晴

末延芳晴(すえのぶ・よしはる) 評論家

1942年生まれ。東京大学文学部中国文学科卒業、同大学院修士課程中退。1973年から1998年までニューヨークに在住。2012年、『正岡子規、従軍す』で第24回和辻哲郎文化賞受賞。『原節子、号泣す』(集英社新書)、『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社)、『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社)など著書多数。ブログ:「子規 折々の草花写真帖」