メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

服従拡大ミシェル・ウエルベック『服従』(河出文庫版)=河出書房新社の公式サイトより

女子学生との放埓

 「ぼく」が過去の恋愛関係/性生活を述懐するパートは、これまたウエルベック十八番(おはこ)の、憂鬱かつデカダンな艶笑譚(えんしょうたん)といった趣で、あられもない表現、偽悪的で辛辣なリアリズム、苦いユーモアが混然一体となった、至芸ともいうべき語り口を堪能できる(私のある知人は、主人公がなぜここまで恋愛やセックスに執着するのかわからない、またこういう描写は女性差別ではないか、と言っていたが、こんにちの日本の読者の感想としては、さもありなんと思う)。

 先に触れたように、かつての「ぼく」はごく当たり前のように女子学生たちと関係していたが、以下の一節では、そうした恋愛生活を、「ぼく」はドン・ファン(女たらし)的な放蕩趣味からではなく、ある種のルーティンとか、孤独への対症療法的な気晴らしとして続けていたこと、そしてそれが「ぼく」の昇格につれて終わりを迎えた経緯が、加齢における男女差などについてのアフォリズムなどもまじえて、じつに微妙なニュアンスで記される――「〔准教授に就任して最初の何年間は〕ぼくは、毎年のように、女子学生たちと寝た。彼女たちに対して教師という立場であることは、何かを変えるものではなかった。ぼくと彼女たち学生の年齢の違いは始めの頃は大きくなかったし〔当然だ〕、それがタブーの様相を呈してきたのはどちらかと言えば大学での昇進のせいであって、自分が年を取ったからでも、老いが外見に現れたからでもなかった。女性の性的魅力の崩壊は驚くべき荒々しさで、ほんの何年か、時には何か月かの間に起こるが、男性の加齢はその性的な能力をとてもゆっくりしか変えないという基本的な不公平をぼくは十全に利用した。〔……〕自分にドン・ファンの趣味があったわけではいささかもなく、抑えがたい放蕩生活の欲望に駆られていたわけでもない。同じように一、二年生を対象に十九世紀文学を教えていた〔……〕スティーヴとは違って、ぼくは、新学期の一日目から一年生という「新入荷商品」に貪欲に飛びついたりはしなかった。〔……そして〕ぼくがそういった若い女の子たちとの関係を止めるのは、〔……〕やる気がなくなり、飽きてしまうからだった」(『服従』単行本17~18頁)。まあ、「ぼく」もスティーヴも、日本の大学ではありえないような放埓(ほうらつ)ぶりだが、しかし言うまでもなく、こうした書法が煽情的なポルノグラフィーのそれとはまったく異なるのは、性行為の行き着く先の倦怠が記されるからだ。

西欧型自由恋愛モデルの不毛さ

 もっとも、「ぼく」の付き合った最後の女子学生、ミリアムとのセックスがあられもなくエロチックに ・・・続きを読む
(残り:約4091文字/本文:約5270文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
デモクラシーやJournalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

藤崎康の新着記事

もっと見る