池田善昭 福岡伸一 著
2017年08月07日
なぜ今、西田幾多郎なのか。そういう難しい問いはいったん置き、いつも引き込まれざるを得ない福岡伸一氏の作品世界に触れたい思いが先走り、本書を購入した。
『福岡伸一、西田哲学を読む――生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』(池田善昭 福岡伸一 著 明石書店)
本書は、哲学者で西田哲学の研究者である池田善昭氏と、生物学者の福岡氏との対話を軸に編まれているのだが、両氏の丁寧で粘り強く柔軟性に満ちた言葉を媒介とすることで、結果として、西田幾多郎が対峙していた世界が(ほんの一端だとしても)つかめる感触を得るのだ。しかも、今を生きる人びとにとってなぜその世界が大事なのかがわかる形で。
本書を成立させる前段階として、福岡氏による「動的平衡」をキーワードとした生命の定義が、西田のめざした生命への考え方ときわめて近いことを池田氏が指摘・評価していることが、ある。
池田氏は、ただ福岡生命論が西田哲学に似ているから評価するのではない。西田哲学につらなる福岡生命論の主要テーマが、生命論史や思想史の上で大きな意味を持つから評価するのだ。大きな意味とは、ざっくり言ってしまうと、ソクラテス、プラトン以来のいわゆる西洋哲学・科学を乗り越える可能性のことだ。AI(人工知能)を含めた人類の未来を照らすために、細分化され互いの行き来を失いつつある現在の「知」を統合・再編するために、西田哲学と福岡生命論の果たす役割が大きい、ということだ。
とはいえ、西田哲学はやはり難解である。両氏も本書でそのことを何度も認めている。しかしどうして難解なのかが示されることで(第1章)、彼らの対話が一気に身近になる。
つまり、ソクラテス、プラトン以来の西洋哲学・科学が大事にした合理的で矛盾を許容しない思考(「ロゴスの立場」)は、反対に、矛盾や相反するもののなかで調和する自然本来のあり方(「ピュシス〔自然〕の立場」)を置き去りにしてきた。
「ロゴスの立場」が限界を迎えたとすれば「ピュシスの立場」に還るしかない。西田哲学こそ「ピュシスの立場」を語る哲学だが、論理で明るみに出されるものの背後に「隠れて」あることが「ピュシス」の本性でもあるため、「ピュシス」を語る言葉は一見矛盾してみえてしまうし、明快な表現にもならない。だから西田哲学は難解にならざるを得ない、ということなのだ。
しかしだからこそ、両氏はたんに「ピュシスは神秘的だ」とか「ピュシスはすごい」として終わらせはしない。「このピュシスもやはり誰にでも伝わる言葉で語られないと哲学にならないし、もちろん科学にもならない。〔中略〕ここはやはり解像度の高い言葉によって西田哲学そのものを語る努力をしていかないといけませんね。その言葉というものを探っていく必要があると思います」(福岡氏)。
そうやって解像度を高めるべく白熱し、格闘する両氏の言葉が本書全体を貫いていて、その経過が強く胸を打つ。
「格闘」といったが、途中、「逆限定」(西田哲学のキーワードの1つ)を吟味する過程で、福岡氏が実際に難局にぶつかる(第3章)。「ロゴスに囚われ」すぎたことが原因で、「逆限定」の理解につまずくのである。ここは本当に生々しい。福岡氏のつまずきが、読む側として痛いほどわかるからだ。
そのこと自体が、読む私自身を含め、現代(人)の思考がどれだけ「ロゴスの立場」に占められているかを示してはいまいか。やがて福岡氏自身がつまずきに気づき、改めて「逆限定」の理解を深めていく過程こそ、この言葉の解像度が上がり、西田哲学が現代にひらかれるさまの記録であるように読める。
難局を経て、福岡氏の生命論は現実に深化する。「動的平衡」の観点から西田幾多郎『生命』を翻訳し(第4章)、「動的平衡」の理論モデル(ベルグソンの弧)を示すに至るのだ(理論編)。このような「深化」は、両氏がめざす「知の統合」の意義を力強く示すだろうし、またその模様を目にできることこそ、本書の大きな醍醐味である。
注記:本書で池田氏が説明するように、西田幾多郎が用いる「ロゴス」の語は「ピュシス」の意味を含むことがあるので注意が必要である(本書では混乱を招かぬよう、「ピュシス」と「ロゴス」の意味を便宜上整然と分けた、ということができる)。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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