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なぜウエルベックはSF的構想を好むのか

ウエルベック的文明批評/社会観察はしばしば、SFとの親和性を帯びるが、前記『素粒子』拡大ミシェル・ウエルベック『素粒子』(ちくま文庫)=筑摩書房の公式サイトより
 ウエルベック的文明批評/社会観察はしばしば、SFとの親和性を帯びるが、前記『素粒子』では、フランス南部の町、パレゾーについてこう記される――「一戸建てが並び、そのあいだには芝生が広がっている。大型スーパーが何軒かあって買い物には便利である。『豊かな生活』の概念は、ことパレゾーに関しては大げさではない。/パリへ向かう南高速道路はがらがらだった。学生時代に見たニュージーランドのSF映画の登場人物になったような気分だった。あらゆる生命が滅びた後の地球最後の人間。この世界の終わりを無味乾燥に告げるような雰囲気があたりに漂っていた」(『素粒子』、ちくま文庫、19頁)。

 ここでは、主人公の一人ミシェル・ジェルジンスキの視点から、パレゾーの町のSF映画的光景が比喩として記述されるだけだ。しかし、読み進めていくと、『素粒子』は異形のSF小説でもあることが明らかになる。

 すなわち、『素粒子』の主題のひとつが、遺伝子操作による知的生命体の創造(クローニング)であるばかりか、本作の語り手は、なんと2200年代を生きる、人間によって人工的に創造された新たな知的生命体であることが、ラストで告げられるのだ(その時点では人間/人類はすでに滅亡している)。作中の時間を未来にまで拡張するSF的発想である。そしてそれは、のちの『ある島の可能性』、『地図と領土』、『服従』までを貫いているが、ではなぜ、ウエルベックはSF的構想を好むのか。

 SFこそは、社会の大きな変動、ないしは文明の興亡を、終末論的ヴィジョンとともに長いスパンで描き出すうえで、もっとも効果的なジャンルだからである。とりもなおさず秀逸なSF小説とは、今現在の現実を未来に延長させ、風刺的・空想的に変形させることで――リアリズム小説とは異なる手法で――かえって人間や社会の実態をリアルに、あるいは戯画的・寓意的に描きうるジャンルだといえる。

 そうしたジャンルの古典には、ジョージ・オーウェル『1984年』『動物農場』、オルダス・ハックスレー『すばらしい新世界』などなどの、反ユートピア/ディストピア小説があるが、ウエルベックの小説にも、ディストピアのモチーフは顕著だ。『素粒子』に登場するディストピアは、前記「変革の場」であるが(同131頁以降)、それは前述の『ある島の可能性』に登場したラエリアン・ムーブメントのような、東洋神秘、ヨガ、瞑想、占星術、タロットカード、火の修行、フリーセックスといった1960年代ドラッグ・カルチャー/ニューエイジ系のアイテムを掲げる、「無限の自由の謳歌」を目指す“ユートピア”的コミューンだ。

悲喜劇的に描かれるディストピア

 そしてむろん、性愛における無限の自由が追求されるはずの「変革の場」は、実際には優勝劣敗(とくに若さの優越)の法則が支配する過酷な性的競争の闘技場=ディストピアである。 ・・・続きを読む
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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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