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[書評]『フリッツ・バウアー』

ローネン・シュタインケ 著 本田稔 訳

井上威朗 編集者

難しげな本の中身にはものすごく濃い人生が!  

 まずカバーに怖そうな外国人のおじさんの写真。しかも誰だかわからない名前が主人公。なんだか難しそう……と思って敬遠したくなってしまいます。で実際読むと、本当に難しい。

 翻訳はおそらく正確を心がけたために、ドイツ語の持って回った表現もそのまま再現しているので、ときどき読んでいてワケがわからなくなります。二重否定の表現も意味のわからない比喩も随所に出てきて、素人読者を迷わせます。

 くわえて、後になるほど誤植や誤訳らしき箇所も散見されるので、さらに混乱が深まってしまいます。もしかしたら、編集している側も最後のほうは集中力が切れたのかもしれません。

 ここではタイトルを言えませんが、私は本書など目じゃないレベルで「後に行くほどミスが多い」と酷評された本を編集したことがあります。なもので、本書を読んでいるときには「うわあすみません」と悶絶しながら過去の自分を殴りに行きたい気持ちまで抱いてしまいました。

 と、内容と関係ない回想で苦しんでいる場合ではありません。そんな読みづらさをはるかに超えるレベルで、この本、とても「面白い」のです。その面白さとは、描かれた人生の「ものすごさ」であります。

『フリッツ・バウアー——アイヒマンを追い詰めた検事長』(ローネン・シュタインケ 著 本田稔 訳 アルファベータブックス) 定価:本体2500円+税拡大『フリッツ・バウアー――アイヒマンを追い詰めた検事長』(ローネン・シュタインケ 著 本田稔 訳 アルファベータブックス) 定価:本体2500円+税
 私のような素人読者にとって「誰?」と突っ込んでしまう、本書の主人公フリッツ・バウアーさん。この人、要するに戦後ドイツで旧ナチの偉い人たちを次々と裁きの場に送り込んだ検事長だったのです。

 はいはい、ドイツはナチス時代の歴史の清算を徹底的にやってすごかった、しかるに日本は……みたいな話でしょ。なんかそういうのもういいから。こうリアクションしたくなる向きもあると思いますが、そんな話ではありません。

 本書の前提は、戦後のドイツも大多数が「しかるに日本は……」で言われがちな方向に向いていた、ということなのです。恥ずかしながら私は、ドイツがそんな感じだったとは知らなかったので、そこからまず驚きでした。

 つまり、戦後のドイツ人も大半がナチスにかかわっていた人なわけなので、みんなして同胞のやったことをなかったことにしたがっていたのです。ナチスのころは法律がそうだったんだから仕方ないじゃん、みたいな言い訳をしていたわけです。

 そこに登場したのがフリッツ・バウアーさん。みんなでそんな言い訳をしていたら、ドイツは未来に行けないだろう! 当時の法律なんかよりもっと高いレベルの、過去も未来も一貫して通用する「正義」に従おうじゃないか。いや、俺はそうするよ。アウシュビッツで働いていた人とか、もうガンガン裁くからね。自分は命令に従ってただけとか、全体の一部の仕事しか担当してないから、とかそんな言い訳、みんな論破しちゃうよ――。

 とても乱暴にまとめるとこんな感じで、ほとんど1人で(フランクフルト学派の人とかも脇役で出てきますが)、ナチスの戦争犯罪を追及しまくる人生を送った人なのです。

 ここまで多数派にタテ突きまくった人生なので、バウアーさんも大変な目にあいます。家に脅迫状の山が届き、寝られないレベルで脅迫電話がやってくるのは当たり前。

 取材に答えた記事が出ると曲解されて炎上するし、マジメにやりすぎるので戦争犯罪の被害者側からも「こんな人だと思わなかった」みたいに言われるし、部下には「うちのボス、戦犯追及ばかりでこっちの出世の面倒見てくれないよ! もうやってられません」と離反されるし、いいことありません。

 プライベートでも裁判の正当性を「復讐じゃないの?」という感じで疑われないために、自分の出自(ユダヤ人で、強制収容所で苦労したのです)をいっさい語らず、古い友人との交流までやめてしまいます。こうした自分への異常な厳しさが、やがてバウアーさん自身の人生を縮めてしまうのですが……。

 ドイツはちゃんと歴史を清算した。こんなイメージを作るために、1人でひたすら奮闘する人生の、なんとすごいことか。

 ただし本書は、バウアーさんを「英雄」として描いたものではありません。解説でも訳者の方が語っておられますが、バウアーさんの「普通の人間」らしさを徹底して書き込んでいるのが本書の特徴でもあります。

 俺ってなんて小さな人間なんだ、みたいに葛藤したり、異常なタバコの吸い過ぎで体を壊したり、人望がないので食堂でポツンとメシを食ってるときに若い人が話しかけてくれると何かすごく嬉しそうだったり……。怒涛のように展開する戦犯追及ドラマの間に挟まってくる人間臭い話も隠さず書かれているのです。

 それゆえ本書、読んでいて難しいのに、ページをめくるのをやめられないドライブ感も満載です。そして「普通の人」はどこまでもすごいことができるんだぜ、というメッセージも伝わってきます。

 私もただミスが多い本を作って後悔するだけではだめですね。そんなの上回るぐらい濃い内容をぶっこめばいいんです。何しろバウアーさんはじめ「普通の人」はすごく濃い人生を送っているんだから。

 以上、「普通の人」の末席よりお届けしました。もっと濃く、ガンガンいきましょう!

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

井上威朗

井上威朗(いのうえ・たけお) 編集者

1971年生まれ。漫画雑誌、Web雑誌、選書、ノンフィクション書籍などの編集を経て、現在はまたWeb雑誌にて書評を担当。手がけた企画は竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』、本田透・堀田純司『メカビ』、斎藤貴男『「東京電力」研究 排除の系譜』(第3回いける本大賞)、古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』など。