宮岡蓮二 著
2017年09月07日
A5版本文384ページのうち、巻頭の「まえがき」と目次の6ページ、巻末の「あとがき」と奥付などの5ページをのぞき、本文の各ページに4~6点、多いところは7~8点の木造アパートの写真だけがびっしりと詰まった奇妙な本である。
ちなみに、ざっと数えてみたところ、ほぼ1500点近くの写真が収載されているのだから驚きだ。まず、これだけのボリュームに圧倒されるのだが、見始めると目が離せない。この不思議な吸引力は何なんだろう?
『APARTMENT――木造モルタルアパート 夢のゆくえ』(宮岡蓮二 著 ワイズ出版)
著者が上京して初めての住まいは、6畳1間に半間の流しと押し入れだけ。同じような貸室がもう1つしかない小さなアパートで、大家1家が1階で暮らしていた。ところが「武蔵野荘」は、内廊下の左右に部屋がいくつも並ぶ2階建ての大きなアパートで、近くに住む友達は同じようなアパートに住んでいたのを思い出した。その懐かしさがきっかけで、著者は都内各地の木造モルタルアパートをデジカメで撮影し始めたのだという。
そういえば、筆者が大学を卒業後に就職が決まり、中野駅の近くにあった長野県の学生寮を出て、最初に1人暮らしを始めたのは、東中野の駅の近くにあった2階建ての木造アパートだったことを思い出した。
1階が大家で、2階には中廊下をはさんで6室あったが、筆者の部屋は3畳間で、押入れは半間。机を置いて蒲団を敷くと身動きができないくらいの狭い部屋で、トイレも洗面所も廊下の突き当たりにあって共用だった。電話は、大家の居間にあって、必要な時はそこで使わせてもらった。風呂はもちろん近くの銭湯。ここから編集者生活をスタートさせたのだった。1967年の春のことである。
著者は、「武蔵野荘」を皮切りに、練馬区から足立区の北千住あたりまで足を延ばし、それ以後は、荒川区、台東区、北区、練馬区、中野区、新宿区、豊島区、板橋区、葛飾区、大田区、江東区、墨田区など都内23区の半数以上を撮影して回る。「生活の場である下町には、にぎやかな商店街も多い。そのメインストリートから路地に入れば、かならずといっていいほど古いアパートがあった」。
商店街近くにあるのは、いまも住人が暮らしているアパートだが、そこから離れると廃屋同然のものも少なくなく、古布団や壊れた家具が放置され雨ざらしになっていたものも目に付く。「そこには風景化された生活の痕跡があるだけだ」と著者は記す。
アパートの名前には、「サンハイツ」「小池コーポ」「大平ハイツ」などと言う洒落た名前もあるが、朽ちかけた波状トタン塀に「小池コーポ」と表札が張り付けられているのを見ると、「?」と思ってしまう。「さくら荘」「欅荘」「大和荘」「富士荘」「大洋荘」「豊荘」「塚本荘」「木本荘」「静閑荘」「呉竹荘」「丸子荘」「八千代荘」「山田荘」「村井荘」「一志荘」「上海楼荘」「秀月荘」「江南荘」「明治荘」「楓荘」「晴美荘」「福寿荘」などなどと、「荘」がつくものが圧倒的に多い。最近でこそあまり見かけなくなったが、アパートといえば何々荘というのが、一種の共通感覚だったのだろう。持ち主の名字に「荘」をつけただけと思われるものも多い。「上海楼荘」なんて表札を見ると、中をのぞいてみたくもなる。
筆者は東中野に1年ほどいて、そのあと阿佐ヶ谷北のモルタル2階建てアパートに越した。1階の中廊下はコンクリート張りで、廊下の左右に6室が配され、8畳間に1間の押入れと洗面所が室内にあったが、トイレは中廊下の突き当たり右側にあって共用。近辺では珍しく、古い農家の敷地内だったので樹木が茂り、わが部屋はトイレの前の角部屋だったから、部屋からトウモロコシ畑などが見えた。アパートの名は「泰山荘」だったから、どこかに泰山木があったのだろう。「さくら荘」「楓荘」「欅荘」などというのは、同じように古木の残る、旧農家の敷地内に建てられたものなのだろうか? 筆者は、ここに引っ越した時、初めて電話を引いた。会社から基本料金が支給されたのと、電話がないと仕事に差し支えるからだった。
掲載されている写真を見ると、2階の屋根や庇(ひさし)の下あたりに電線のようなものが複雑に絡まっているのは、恐らく電話線だろう。ある時期から、電話の無い暮らしは考えられなくなったのだろうが、携帯電話が普及した現在とは隔世の感がある。電柱から何本も束ねて引かれた電話線に、蔦が絡まっていたり、建物全体がびっしりと蔦に覆われたアパートもいくつかあって、その年輪を感じさせる。
ちなみにカバーの表4は、古いアパートに絡まった蔦が枯れて、蔓だけがびっしりと絡みついた写真が配されているが、カバーを取ると、建物が全く見えないくらいに濃密に蔦が繁茂している写真が現れる。木造モルタルアパートの盛夏(最盛期)と、晩秋を暗示しているようでもある。それはまた、著者の木造モルタルアパートへの挽歌のようにも読みとれる。
とはいえ、木造モルタルアパートは、現在も大都市生活者の住まいとして重要な役割を担っている。壁に整然と並んだ電気の検針メーターや郵便受け、立て掛けられた何台もの自転車。ベランダや軒先に並べられた植木鉢。軒下につるされた洗濯物。そのそれぞれを見ていくと、そこに住む人の年代や、家族構成までもそれとなく推察できる。各戸ごとに冷房の室外機が付けられているアパートの駐車場にはトヨタや日産の乗用車が。壁や塀に張られた選挙ポスターは、公明党がいちばん多く、その次が共産党で、近隣に住む人たちの政治意識や政党の地域活動の在り様まで見えてくる。
壁が落ち、ドアが壊れ、外階段にごみが散乱している、もはや住人のいないアパートも紹介されている。それらは、70年代から80年代、昭和の終わりに近い時代に都内に暮らした庶民の記憶のタイムカプセルのようでもある。1954年に始まった集団就職で地方から東京に出て来た若者たちは、大企業だったら会社の寮に、個人経営だったら家族と同居する。「かれらが夢見たのは、故郷へ帰ることをのぞけば、一人で生活していくこと、ではなかっただろうか。その憧れの対象が、いま朽ち果てようとしている、この木造モルタルアパートではなかっただろうか」。
高度経済成長を底辺で支えた「かれらの夢は、確実に失われゆく風景となってしまった。これは、戦後という時代の消滅を物語っているのかもしれない」という推論は、「貸本マンガ史研究会」のメンバーの著者ならではの鋭さである。
戦後の貸本マンガブームを中心的に支えたのが、そういった若者たちであり、彼ら彼女らが所帯を持って暮らしたのが、この本に収められたアパート群だったのではないかという、深い思いと著者の愛惜が、執念のように撮影しまくった一葉一葉の写真の中に詰め込まれている。見れば見るほど、様々な思いが立ち上がってくる不思議な写真集だ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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