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修学旅行と遠足の集団行動が日本人の行動力を奪う

なぜ、旅好きのきっかけにならないのか?

勝部元気 コラムニスト・社会起業家

旅行修学旅行のスタイルは日本の“学校文化”として脈々と受け継がれてきた
 前回の記事では、運動嫌いになる背景として、体育の授業と部活動という2つの大きな壁が、以下のように立ちはだかっていることを指摘しました。

 (1)「皆と一緒に」という集団行動のメリットや楽しみにばかり視点が置かれていて、単独行動の楽しみが無視されていること。また、運動神経は子供のアイデンティティー形成にとってセンシティブな問題であるにもかかわらず、配慮が一切なされていないばかりか序列化を助長してしまっており、運動が苦手な子供に「運動カーストコンプレックス」が生じること。

 (2)厳しい部活動を経験したために、「運動=辛くとも頑張った青春時代の思い出」というイメージがトラウマ的に形成されることで、スポーツを大人になってからやろうと思わなくなってしまうこと。

 ですが、(1)の集団行動に偏重した教育の弊害は、運動嫌いを生むことにとどまらないと思います。とりわけ、自己決定や自立の楽しさの軽視は、自ら考えて行動する機会を子供たちから奪ってしまうことにつながります。ひいては「YESマン」になりがちな日本人を増やしかねないのではないでしょうか?

旅程を組み立てられない同級生たち

 具体例を2つあげてみましょう。1つ目は修学旅行です。およそ20年も前の話で恐縮なのですが、私が中学3年生の時、修学旅行で1日だけ班別行動がありました。その時、同級生の単独行動力の弱さに愕然とした記憶が今でも根強く残っています。

 ほとんどの生徒が、地図を読めず、時刻表を使えず(今ではスマホアプリがあるから「乗り鉄」等のマニア以外は読める必要は無くなった)、どうやって調べれば良いかが分からず、よって先生の全面的なサポート無くして旅程を立てることができなかったのです。

 それ以前に、何がしたいか、どこに行きたいかという自分の意思を言語化できない人もいました。おそらく、学校では教師に引率され、家庭でもどこかに旅行するとなると親についていくだけだったのではないでしょうか。

 私は皆が行きたいところを1つずつ挙げてなるべく全てを回るという民主主義的な決定をしたいと思っていたのですが、その希望があやふやな人が多く、結果的に半分以上は私が行きたい場所になってしまいました。

団体行動偏重の反動

 一方、私は

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