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公式上映後、観客の拍手にこたえる黒沢清監督(右)ら=カンヌ 拡大2017年カンヌ映画祭の公式上映後、観客の拍手にこたえる黒沢清監督(右)、長谷川博己(中央)、松田龍平

 

 『散歩する侵略者』で鳴海の夫・真治に扮する松田龍平が、ハマリ役であることについては多言を要すまい。終始、何を考えているのかわからないボンヤリした無表情に徹し、ふらふらと放心したように歩き回り、昏倒し、あるいはほとんど抑揚を欠いた低い声で言葉を発し、出会った人間から「概念」を奪ったりする松田は、“乗っ取られ夫”をあたかも「自然体」であるかのように、淡々と飄々(ひょうひょう)と演じて間然するところがない(もとより、無表情や抑制されたセリフ回しを役者に求める演技設計は、『CURE/キュア』(1997)の催眠殺人者・萩原聖人に典型的なように、黒沢清の作家的刻印のひとつだ)。

 そして松田/真治のテンションの低さは、たんに外見や態度物腰だけでなく、その内面――きわめて希薄に見えるがそれは存在する――の温和さをも示している。松田扮する真治は、宇宙人/侵略者でありながら、天野やあきらのような残虐さが皆無であるばかりか、前述のように、真治は「ガイド」たる鳴海に導かれた学習――とりわけ終盤における「愛」という「概念」の学習――によって「地球人化」していくのである。

 もう一人の主要人物、長谷川博己扮する桜井はといえば、不活発で感情の起伏を欠いたダウナー系の真治/松田とは対照的な、気骨があり好奇心旺盛で活動的なジャーナリストという、アッパー系のわかりやすいキャラクターであり、少なくとも終盤の「戦争勃発」までは、鳴海とともに観客がもっとも感情移入しやすい、<定点>となる人物だ。そして、桜井のそうした性格設定に見合うように、長谷川博己はおそらく、黒沢映画史上もっともテンションの高い、心の動きを明快に表す演技を披露する。

 しかもそれが、暑苦しい演技臭をみじんも感じさせないのは、やはり黒沢マジックのゆえだろう(『シン・ゴジラ』で薄っぺらで魅力に乏しい政治家を演じたさいの彼の嘘臭い大芝居とは、雲泥の差である)。さらに刮目(かつもく)すべきは、『散歩する~』における長谷川のアクセントの強い演技が、随所で小味の利いたコミカルさをにじませる点だ(自衛隊の無人機から爆弾を投下されても、大声で笑いながら突っ走ったり、広場の群衆に向かって天野を指さし、あいつは侵略者で人類を滅ぼそうとしている、と叫ぶ演説の途中で、――って言ったってあなたたちは信じないよな、と小声でつぶやくところなど)。

 そして、そんな長谷川の痛快かつ繊細なパフォーマンスは、ロングに引いたかと思えばスッとアップに寄る、名手・芦澤明子の柔軟でクリアなカメラや、小気味のよい編集のリズムとあいまって、映画をダイナミックに活気づけている(長谷川博己は、黒沢清によって演技という「概念」を奪われたのか!?)。

活劇的興奮をもたらす長谷川博己の勇姿

 このように、桜井の明快なキャラクターにもかかわらず、彼をめぐるドラマには、観客の意表をつく、いくつもの工夫が凝らされている。若い侵略者/宇宙人である天野とあきらを密着取材しながら、さまざまな驚くべき出来事に遭遇する桜井は、天野とあきらの「ガイド」であるゆえ、彼、彼女らによって肉体を乗っ取られたり、「概念」を奪われたりしないのは当然といえば当然だ。しかし、とはいえ後半の、天野とあきらを倒そうとする国家(日本)の尖兵――自衛隊や秘密警察めいたグループ――に対し、桜井が天野らと共闘する形で戦いを挑んでいくという意想外の展開には、まさしく、<物語が化ける>ことによる戦慄的な面白さが弾ける(天野は桜井に、あんたは人類のサンプルとして生かしておくと言ったり、また桜井は、天野たちが人間から採取した「概念」を宇宙に送信するための発信機を市販の部品でつくる作業に協力したりする)。

 むろん、当初桜井を突き動かしていたのは、天野ら侵略者への共感というより、特ダネを狙うトップ屋根性であっただろうが、しかし桜井の行動は、次第に反国家的で過激な武装闘争の様相を帯び、画面を狂おしく沸騰させるに至る。とりわけ、天野とあきらの死後、あたかも国家権力に弔い合戦を仕掛けるがごとく、例の発信機をアンテナに接続した中継車を駆って、上空を飛ぶ自衛隊の無人爆撃機に向けて機関銃を発射する――完全に宇宙人サイドに立った――彼の勇姿は、強度の活劇的興奮をもたらす。

 もっとも桜井は、前述のように哄笑しながら疾走し、投下される爆撃をかわすという狂気じみたユーモアを放ちながらも、ついには爆弾を食らって絶命するが、その直前の桜井の、上半身をぴんと伸ばし、機械仕掛けのような所作で足を引きずって歩く前衛舞踏めいた珍妙なパフォーマンスが、なんとも印象的だ。

 そしてその桜井の最期を、引きのフル(全身)ショットでとらえるカメラも卓抜(じつは桜井は、少し前のシーンで、銃撃されて死ぬ間際の天野に、「俺の体に乗り移れ」と言うのだから、その直後天野が桜井に憑依したのかもしれない……)。

「概念」喪失後の人間たち

 アクションといえば、宇宙人/侵略者たちに「それ、もらうよ」と言われて、額を指で触れられ「概念」を奪われ、膝からがくっと崩れ落ちる人間たちの動作も目を奪う ・・・続きを読む
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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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