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[書評]『なぜ中国人は財布を持たないのか』

中島恵 著

大槻慎二 編集者・田畑書店社主

中国の“いま”を知る意味  

 いちばん直近で北京を訪れたのは2005年のことで、もう12年も前になる。当時は小泉元首相の靖国参拝や、「つくる会」の教科書が検定を通ったりしたことが引き金となった反日デモが各地で起こっていたが、日本人観光客はあちこちで目にしたし、一旅行者にとって危険なことは別段なかった。

 オリンピック以前の北京の街は、表通りを1本入ると至る所に瓦礫の山が出来ていて、建設途上のビル群が、まさに生まれ変わろうとしている街を象徴していた。おそらくいま訪れたとしたら、歩いた場所の記憶のかけらも戻らないほど変貌を遂げているだろう。

 そんなふうだから、現在の中国について、本や記事を読んだだけであれこれと知ったかぶりをするなど恥ずかしくて出来もしないが、それを置いても本書は読んで語るに足る驚きに満ちている。

『なぜ中国人は財布を持たないのか』(中島恵 著 日経プレミアシリーズ) 定価:本体850円+税拡大『なぜ中国人は財布を持たないのか』(中島恵 著 日経プレミアシリーズ) 定価:本体850円+税
 まず、その驚きはスマホとシェア自転車に始まる。

 前者の驚異的な普及と進化が本書のタイトルにも関係してくるのだが、中国の社会は固定電話という過程をすっ飛ばして(「カエル跳び=リープフロッグ現象」。本書のキーワードのひとつとなっている)、さらにパソコンという段階をもすっ飛ばして、農村の隅々にまでスマホが行き渡っている。なぜそんなことが起こるのか、著者は歴史的・社会構造的に解き明かしていく。

 そのすべてをここで紹介することはできないが、主なところを拾うと、ひとつには過度な情報統制が逆にスマホ文化の爆発的発展をもたらしたということ。それから電子決済がこれほどまで急激に広まった根底には、リアルマネーに対する生理的な嫌悪感、そして不信感がある。

 ここはもしかしたら、われわれ日本人には感覚的に理解が及ばない部分があるかもしれない。というのもわれわれにとってお札や硬貨はまず何よりも物質として大切なもの、粗末にしてはいけないものであるが、中国人にとっては記号の表象に過ぎない。だから扱いが酷いし、実際日本人が言う「お金に触れたら手を洗う」とは比較にならないくらい汚くて、なるべくなら触れずに済ませたいという認識がある。加えて一瞬にしてその価値を失ってしまうという経験を歴史上何度もしている彼らにとっては、まったく信用の置けないものなのだ。

 スマホが全世代に、また広大な国土にあまねく行き渡ることの経済的効果、文化的影響力は計り知れない。どんな田舎においても、隣人よりもダイレクトに世界にアクセスできてしまうのだ。

 そして、シェア自転車。

 そもそも本書を手に取ったきっかけは、久しぶりにお目にかかった某デザイナーから、シェア自転車の爆発的な普及がどこまで中国社会を変えたかを伺ったことだった。それはたとえば不動産物件の表示から「駅から徒歩何分」という文言が消えるほどで、ごく短期間で街のインフラがガラリと変わってしまったのだという。

 シェア自転車についてはどこかのニュースでその片鱗に触れてはいたが、そんな存在だとは知らなかった。そのデザイナーはアジアのみならず世界中をほぼ日常的に駆け巡って仕事をしている人で、特に中国の人々の暮らしのありのままの情報が日本ではほとんど伝えられないのを嘆いていた。

 スマホにしてもシェア自転車にしても、その変化の速度は驚異的で、2020年には日本のGDPの3倍になると予想される中国の実態を把握しないままいまを過ごすとすれば、日本は取り返しのつかない錯誤に陥る危険性がある。しかもその情報を遮断しているのは、政府ぐるみのある意図をもったものだとしたら、こんな愚かしいことはない。

 というのも、スマホやシェア自転車などのインフラ、いわばハード面の激変以上に驚くべきなのは、社会的ソフトの部分の変化、いわゆる「80年代生まれ」の若者が作り出している「新しい価値観」である。爆買いやパクリ文化が「中国的」であるとの認識はもう決定的に古い。本書に紹介されている杭州市郊外の自然豊かな環境に作られたプチホテルやペンションなど、ぜひ泊まってみたいと思わせられるのは、ヨーロッパや日本などを自分の足で歩き、自ら調度を揃えたという経営者・慎章翔氏の、次のような言葉に触れたときだ。

 「ここにはブランドショップも高級フレンチもありませんが、おいしい空気と豊かな自然があります。これこそ、お金持ちになっても中国人が買えなかったもの。中国では得がたいものです。こういうシンプルな生活が本当は贅沢で心も豊かになることなのだと、一部の中国人は気づき始めたのです。そういう人たちが訪ねてくれます」

 こういう80年代以降の生まれの新しい世代が社会の中枢を担ったとき、確実に大きな質的変化をもたらすに違いない。

 いまの中国をよく知ることは、合わせ鏡のように自分自身を知り、日本を振り返ることになる……著者はそう強調するが、まったく同意する。

 たとえばいま、中国では静かな古典回帰ブームがあるという。書店では四書五経を始め古典文学の新訳が並びよく読まれているし、市井では古典を教える私塾のようなものまでが流行っている。その遠因には文化大革命で失った伝統文化への希求がある。

 また、文革で失ったものは、伝統文化だけではない。先にリアルマネーへの「不信感」を挙げたが、社会全体に不信感を植え付けたのもまた文革だという。それがまたスマホへの傾倒を助けることになるのだが、一方、われわれ日本がいま置かれている状態はどうだろう。おそらく何年か後にここ数年の日本を振り返ったとき、もしかしたら文革に等しいほどのダメージを社会が受けている時期かもしれない。正しいことを正しいと言えない。隣人が信用ならない。ジャーナリズムと教育が危機的状況にある……モラルも低ければ識字率も低い社会のお荷物的存在の政治家が大手を振って国を運営している現在、その愚かさにおいては文革をはるかに凌いでいるかもしれない。

 この危機を脱することができたとして(ぜひ、そうあらねばならないが)、その後に来る社会とはどんなものなのだろうか。あるいはどんなものにしていかねばならないか。それはいまの中国をつぶさに見て学ぶべきことかもしれない。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

大槻慎二

大槻慎二(おおつき・しんじ) 編集者・田畑書店社主

1961年、長野県生まれ。名古屋大学文学部仏文科卒。福武書店(現ベネッセコーポレーション)で文芸雑誌「海燕」や文芸書の編集に携わった後、朝日新聞社に入社。出版局(のち朝日新聞出版)にて、「一冊の本」、「小説トリッパー」、朝日文庫の編集長を務める。2011年に退社し、現在、田畑書店社主。大阪芸術大学、奈良大学で、出版・編集と創作の講座を持つ。フリーで書籍の企画・編集も手がける。