劇団態変 編著
2017年12月06日
「劇団態変」は、3歳で「ポリオ」(=「急性灰白髄炎」、または「脊髄性小児麻痺」)を患い、重度身体障碍者として生きてきた在日2世の金満里(キム・マンリ)氏が、1983年に自らを主宰者として大阪を拠点に立ち上げた障碍者の劇団だ。以来34年、彼女は一貫してその芸術監督を務め、劇団と自身のソロ公演を含めて、現在までに70本に及ぶ作品を作・演出してきた。
海外からの招聘も数多く、92年のケニア・ナイロビを皮切りに、スイス、ドイツ、韓国、台湾、マレーシア、シンガポール、インドネシアなどで公演し、とくにヨーロッパでは「これまでのダンスの枠組みを大きくとらえ直す必要のある表現に出会った」との評価を得ているという。「身体の存在性から表現を引き出す」ことを謳った独自のワークショップを開催し、2001年に創設した「金満里身体芸術研究所」では、障碍者と健常者を対象に広く身体表現の指導・研究を続けている。
『劇団態変の世界――身障者の「からだ」だからこそ』(劇団態変 編著 論創社)
第1に、(観客として観ているいわゆる健常者にとって)最初は日常感覚にそぐわない単なる異物感をもって見えていただけの動きが、(演ずる障碍者その人にとっては)異物ではなくただの日常そのものだと、少しずつ気づかされながら感じるに至る、豊かな逆転のプロセスを味わう面白さだと言うことができそうだ。
これは、普段は何も思わずに見ている自分の手の5本の指が、唐突に見知らぬ異形のものに変貌するときの奇妙な懐かしさや、子どものときによく感じた、見慣れた漢字が突然よそよそしく見えてしまう生々しさをひっくり返して見えてくる面白さに近い。つまり、退屈な日常感覚というキャンバスに、異形の演者の登場によって裂け目が生じ、そこに、見知らぬながらも異形ではない素顔の他者(障碍者)が、実在感たっぷりに姿を見せ始める感激がまず魅力なのである。
そして次の段階では、そのような形で近しくなった他者が、やがて自分とつながりのある親しい者として見えるという、出会いがしらの感動とでも言うべき、或る「出会い」の感覚がやってくる。
この「出会い」は、観る側と演じる側双方のそれぞれの下意識への集中によってのみ劈(ひら)かれる、優れて演劇的な体験だと言っていい。そしてそのような集中を、観る側と演じる側双方に可能にするのは、おそらく他の公演でも、<痙性マヒ>や<弛緩性マヒ>や<可動域制限ないし肢欠損>などの障碍を抱えた役者たちが、ときにそれぞれの形で見せつけているに違いない、舞台を這いずり回って何ものかを探っているかのような、「身障者性に満ちた」「生きている命の正確な表現」なのだろう――金さんはこのような事情を、「踊る」という独特の語彙で指し示す。
「劇団態変とポリシー」と題された本文冒頭の説明によると、「態変」は、「障碍者にしか演じられない身体表現を追求するパフォーマンスグループ」であるという。障碍を露わに繰り広げられるそのスタイルについて、金さんは「意図されたコントロールに服さない身体から引き出したものを作品に結実させようとしてきた」と語り、さらに「態変の表現は……人間の身体に対する限りない信頼、個々の存在の絶対肯定に立って……人間に対する価値判断の一元的な判断を否定する」と明るく断言する。
その思想に拠って舞台に座り、あるいは横たわる肢体がときに指し示す、たとえば指先の豊かな動きなどが、不自由であることによって、かえって多くの見えないことがらを暗示し、象徴し、示唆してみせる。そして、金氏はそれに被せるようにこうも言うのだ。「劇団自体の一貫したテーマは、世界の人類史に於ける優生思想の価値観を、根底から転倒させるほどの身障者の身体表現にある」と。
優生思想については、「おわりに」で、金氏自身があの「相模原障害者施設殺傷事件」にあらためて言及し、日本の社会には必要ないと断じられ、殺害されて名前も明かされないままに葬むられた19人の「障碍者」たちへの深い悼みを述べ、それを許した社会に遍く潜在する優生思想に抗する芸術的な闘いの継続を宣言し、最後には叫ぶようにこう繰り返している。「劇団態変はその芸術の方法で、具体的に優生思想とは違う人間の命の存在を見た人に浸透させ、揺るぎない芸術創造へ、さらに闘い挑んでいくことを誓う」と。
「おわりに」の冒頭には、この叫びと対照的な「犀の角のように唯一人歩め」という仏陀の言葉が無造作に置かれている。筆者にはこれが、「異文化の交差点」というサブタイトルがついた劇団の情報誌『イマージュ』の編集コンセプトにある「神が細部に宿るように、個別性に宿る文化があってよい」という言葉と重なって聴こえ、ラジカルな拒否の精神が優しい視線と混じり合う、舞台上の金さんの表情が浮き上がってくるように思えた。
本書は、作りかけの思想の力が強く感じられる「人類有史への挑戦」と題された金氏の巻頭言のほか、「劇団態変とは」という情報色が濃い「第一部」と上記の「おわりに」とに挟まれて、『イマージュ』に掲載された一連の対談からなる「金満里『身体を巡る対話』」という「第二部」で構成されている。対談に登場する人は、大野一雄、松本雄吉、マルセ太郎、竹内敏晴の故人4人に、大野慶人、鷲田清一、上野千鶴子、高橋源一郎、内田樹、鵜飼哲を加えた都合10人。どの組み合わせにも、それぞれに健常者と障碍者の間にある見えない壁を消去せずに乗り越えるための様々な発想が散りばめられていて、とても面白い。
最後に、その中のやり取りを2つだけ紹介しよう。前者が異端児ジャン・ジュネの研究で知られるフランス文学の鵜飼哲氏。後者は作家の高橋源一郎氏との対話である。
(1)
金 健常者は世界観を健常者の眼差しでしか持っていないんで、そこから障碍者のいいところを切り取ることの限界は絶対あるから……健常者が障碍者の演出をやることに関しては、暴力的という以前に、あってはいけないと思うんです…
鵜飼 まあ、パラリンピックはその最も大がかりなものといえますよね。
(2)
金 文学の役割ってなんですか。
高橋 ……文学の役割っていうのはですね。いままで教わってきたことを全部忘れさせること。
金 (爆笑)それいい。それいいです!
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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