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[書評]2017年 わがベスト3 (3)

『夫・車谷長吉』『子どもたちの階級闘争』『それでも それでも それでも』……

神保町の匠

木村剛久(著述家・翻訳家)
 ことしも近縁の人を多く見送った。幽明のさかいがあいまいになりつつある。追想と残余。もう若いころのようなあせりはない。ゆっくり本を読む日々がつづいている。

●高橋順子『夫・車谷長吉』(文藝春秋)
 車谷長吉の書くものに、ぼくは生まれ故郷、播州の光や音や匂いを感じていた。小説を書くというのは、崖から飛び降りるくらいすごいことだ。ましてや、小説家との結婚は、生半可な覚悟ではできない。著者は小説家に、あなたのことを好きになってしまいました、と手紙を書く。小説家からは、もし、こなな男でよければ、どうかこの世のみちづれにして下され、と返事があって、ふたりはともに寄り添う関係になる。それから極楽と地獄を往還する日々がはじまった。切ないのに笑える大きな愛の物語だ。
[書評]運命のように巡り会った男と女の純愛の書

●栗田勇『芭蕉』(上下巻)(祥伝社)
 当初、予定されていた「枯野の旅――旅に病んで」は書かれなかった(いつか書かれることを念願するけれど)。「おくのほそ道」をいちおうのしめくくりとして、10年にわたる連載が完結した。著者は芭蕉の行程に寄り添い、みずからの人生をふり返りながら、芭蕉の残した句を味わいつくす。そこには東洋思想や詩歌の精髄が流れこんでいただけではない。いわば永遠が閉じこめられていた。芭蕉は時空を超える。まさに畢生の大作だ。

●竹田青嗣『欲望論――第1巻 「意味」の原理論』(講談社)
●竹田青嗣『欲望論――第2巻 「価値」の原理論』(講談社)
 日本で生まれた世界的哲学書といってよい。オビにうたわれた「2500年の哲学の歴史を総攬し、かつ刷新する画期的論考」という惹句も、けっして大げさではない。独断論的普遍主義と懐疑的相対主義の不毛な論争を乗り越え、人間とは何か、世界とは何かという根源的な問いに迫る。世界を価値と意味のたえず生成変化する連関の総体としてとらえ、思考の停止を求める「暴力原理」に対抗して、新たな希望の哲学を立ち上げようとする。時間をかけて熟読すべき本だ。

 ほかにナオミ・クライン『これがすべてを変える――資本主義vs.気候変動』(幾島幸子著、荒井雅子訳、岩波書店)丹羽宇一郎『戦争の大問題――それでも戦争を選ぶのか。』(東洋経済新報社)イアン・カーショー『地獄の淵から――ヨーロッパ史1914−1949』(三浦元博、竹田保孝訳、白水社)
[書評]戦争をしてはいけない(『戦争の大問題』)
[書評]歴史をふり返り、いまを考える(『地獄の淵から』)

駒井 稔(編集者)
●三谷太一郎『日本の近代とは何であったか――問題史的考察』(岩波新書)
 この本のタイトルに惹かれて一読、文字通り蒙を啓かれた。現在、日本を含む世界で次々に起こる激烈な変化も、歴史的な流れからみれば、理解の届く問題であることが分かる。本書は日本政治外交史が専門の著者が、日本の近代における政党政治、資本主義、植民地帝国、そして天皇制について独自の視点から分析した一冊。常に現在を照射し続ける視点から書かれた我が国の近代のあり方は、これまで流通してきた通俗的な史観を覆すだけの迫力がある。特に「教育勅語」の成立過程に触れた部分は圧巻である。日本という国が、世界の中で、どのように近代化されてきたのか初めて知ることも多い。著者の希望通り、本書は長く読み継がれるのではないかと思う。

●ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)
 新潮ドキュメント賞を受賞した作品。多くのイギリス礼賛本とは違い、日本人の書き手がイギリスの下層階級について書いた画期的な一冊。アルコールや薬物依存など問題のある親を持つ子どもや貧しい移民の子どもたちの姿が生々しく描かれている。著者自身が保育士として働く最底辺の託児所からもたらされた、まさに地べたから見たU.K.レポート。しかし遠い外国の話ではない。貧富の差が劇的に広がった我が国では、すべてが身近な問題になりつつあるのではないだろうか。著者の淡々として、ときにユーモラスな筆致が、衝撃的な内容を過不足なく伝えていて、本書の大きな魅力になっている。ブロークン・ジャパンの事態を招かないためにも、学ぶべきことはたくさんある。

●ルトガー・ブレグマン『隷属なき道――AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』(野中香方子訳、文藝春秋)
 生活保護の減額を検討している国で、一定の金額を無条件で与えるベーシックインカムなど夢想に過ぎないと思うのは早計だ。29歳のオランダのジャーナリストが書いた本書は、近代が生み出した福祉制度の限界を突破する処方箋を具体的に提示する。過去最大の繁栄のなか、なぜ人々はこんなに苦しむのか。過重な労働の軽減、国境の開放による経済の活性化など、AIの発達で大きく変わる労働環境に対処するための提言は説得力に満ちている。それでも非現実的だと思う人に、著者はこう言う。奴隷制の廃止、女性参政権、同性婚も、当初は夢物語だと思われていたではないか、と。

ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)

西 浩孝(編集者)
●鈴木一誌『ブックデザイナー鈴木一誌の生活と意見』(誠文堂新光社)
 2005年から2016年まで、12年間のエッセイを集める。この間、かつては当たり前だったことが当たり前でなくなり、当たり前でなかったことが当たり前になった。「風景は、露呈を押さえるかのようで隠微だが、そのぶん、日常の細部に違和を感じる」「身の回りでは、反転がそこここで密かに起きているのではないか」。著者の批評は生活を離れず、みずからを撃ち抜くかたちで現在を問う。選択するだけの〈消費者〉に対し、ここには意見をもつ〈個人〉のすがたがある。本書をつらぬくのは compassion(共感・共苦)だ。すなわち、人間が人間であるために必要な〈痛み〉の感覚である。

●齋藤陽道『それでも それでも それでも』(ナナロク社)
 「ただ眼に見えているだけのものを、ただ見ることに、飽き飽きしている。結局のところ、心と心が交わるときにしか、見ることの意味は深まらないのだ」。1983年生まれの写真家が、カラーで撮った自身の写真に400字のテキストをつけた本。なにごともおこらないその鮮烈さをもって、目の前の存在に出会うのだという。「待つ」ことによってしか生まれなかった写真と言葉。ここではだれもが、なにもかもが、いま光の中に立っていると感じさせる。

●フランコ・バザーリア『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!――イタリア精神保健ことはじめ』(大熊一夫・大内紀彦・鈴木鉄忠・梶原徹訳、岩波書店)
 世界に先駆けて精神科病院を廃止したイタリア。その改革を主導したのがフランコ・バザーリア(1924−1980)である。「私たちが何を欲しているのかを表現できない局面では、人間はいつでも敗北する」。彼のいう「平和に潜む犯罪」は精神科病院にとどまらないはずだ。「腐りきったものが、いつまでも回り続けている。しかし、同じ車輪が回り続けるのを、私たちは拒否しなければならない」。思想はつねに実践の次元とともにあることを教えるバザーリアの遺言。

[番外として]
●『上野英信 闇の声をきざむ』(福岡市文学館)
 同題の展覧会図録。『追われゆく坑夫たち』(岩波新書)等で知られる記録作家・上野英信(1923−1987)の生涯を賭けた仕事に迫る。「記録とは、時を超えた連帯の意味である」とする企画者らの並々ならぬ意欲が全体にみなぎり、圧倒された。

WEB書評 三省堂書店×WEBRONZA 神保町の匠