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[書評]『ハックルベリー・フィンの冒けん』

マーク・トウェイン 著 柴田元幸 訳

上原昌弘 編集者・ジーグレイプ

19世紀アメリカを舞台とした大人向けの名作  

 19世紀のミシシッピ川の水先案内人は、座礁しないよう、安全な水深の運行ルートに蒸気船を誘導しなければならなかった。水先案内人が安全確認の点呼をするとき、そのかけ声はこうなる。「マーク・トウェイン!(Mark twain)」。Twainはtwoの古語であり、「水深2尋」(=3.66メートル)を示す。最低限の安全性が保たれる水深がマーク・トウェインなのだ。

 20代のころ、アメリカで雑文書きのアルバイトをしていたサミュエル・クレメンスの本業こそが、まさにその水先案内人であった。スベらない、最低限の面白さを保証するユーモア作家、マーク・トウェインが誕生するのは彼が水先案内人の免許を取得した4年後、28歳のときである。

 『ハックルベリー・フィンの冒けん』は、トム・ソーヤの親友の野生児ハックルベリー・フィンを主役に据えた、『トム・ソーヤーの冒険』の続編の少年小説である。

『ハックルベリー・フィンの冒けん』(マーク・トウェイン 著 柴田元幸 訳 研究社) 定価:本体2500円+税拡大『ハックルベリー・フィンの冒けん』(マーク・トウェイン 著 柴田元幸 訳 研究社) 定価:本体2500円+税
 しかし作者のマーク・トウェイン自身がそもそもコラムニストであって児童教育に一家言あるわけでもなく児童文学畑の作家でもない。だから本書に描かれるのは子どもの友情とか未来とか愛とかそんな理想世界とは無関係で、作者自身が知悉するミシシッピ川流域を中心としたアメリカ中西部の大自然と、ハートウォーミングな人々がいるかと思えば煽動されて「群集」と化す近代アメリカ社会そのものである。

 この本を手にとる人は子ども向けに潤色された内容ではないということを心して読むべきだろう。

 しかし児童向けではないのに、なぜタイトルは「冒けん」なのか。実は本書は一人称小説で、ろくに学校にも行っていないハック自らが語る形式をとっている。そのために、原書の英語は平易な単語ばかり(訳者の柴田元幸の解説には原書の英文も引いてある)。

 それを忠実に日本語に移植するならば平仮名を基調に訳さざるを得ず、文章中に漢字はほとんど使われていない。しかしハックは基礎教育もなしにいきなり養育先のミス・ワトソンに英国史を丸暗記させられたらしく、ときとして難解な用語も持ち出したりする。そのアンバランスさが魅力でもあり、あえて「ぼうけん」ではなく「冒けん」と片方だけ漢字表記としてある。ほぼ同世代としてミルンの『くまのプーさん』の「家」(House)がプーの知的レベルにあわせ、誤植(Howse)となっているのを想起されてもよいかと思うのだ。

 さて、本書の冒頭部分にはじつは大きな仕掛けがしてある。架空の登場人物であるハックがいきなり、実在の書物『トム・ソーヤーの冒険』と実在の作者マーク・トウェインを語り出すのである。

 「トム・ソーヤーの冒けん」てゆう本をよんでない人はおれのこと知らないわけだけど、それはべつにかまわない。あれはマーク・トウェインさんてゆう人がつくった本で、まあだいたいはホントのことが書いてある。ところどころこちょうしたとこもあるけど、だいたいはホントのことが書いてある。べつにそれくらいなんでもない。だれだってどこかで、一どや二どはウソつくものだから」

 セルバンテスの『ドン・キホーテ』の続編がまさにこの作中人物が実在の書物を語り、その書物がベストセラーとなっている世界を生きるという、メタ文学の手法をとっていたことを思い出させる冒頭部である。このハックの語り掛けは、どう考えても子どもに向けたものではなく、読者の想定は大人と考えるしかない。

 じつはそのとおりに、本書は1885年の原書刊行直後から児童文学の枠を超越した作品として評価されてきた。それとまた同時に論争の対象ともされてきた。作者の実体験を反映したとおぼしきスリリングなミシシッピの川下りの顛末はまさに「冒けん」なのだが、論議の的となったのは冒険そのものではない。まさにマーク・トウェインによる「大人へのメッセージ」が問題とされてきたのである。それはこのあと、本書のストーリーを追う中で説明して行きたい。

 物語は舞台を1835年から45年のあいだとして想定している。南北戦争時にリンカーンの奴隷解放宣言が出される前の話。そのころ、南部の大型農場の労働力のメインは黒人奴隷であって、逃亡奴隷は深刻な問題となっていた。

 ハックルベリー・フィンは黒人奴隷に対して穏健な中西部、ミズーリ州のセントピーターズバーグで暮らしていた。信心深い篤志家の未亡人と苛烈な妹ミス・ワトソンの庇護のもとにあったが、行方知れずだったアル中の実父が災厄のように戻ってくる。ハックは養育先から実父に拉致され、町外れの丸木小屋に監禁される。DV(ドメスティック・バイオレンス)が繰り返される日々に堪えかねたハックは、野豚を殺した血をばらまき、自分が殺害されたと見せかけて小屋から逃走する。

 同じころ、未亡人の家の黒人奴隷ジムも逃げ出していた。ミス・ワトソンはジムを、南部のルイジアナ州のニューオーリンズへ売ろうとしていたのだ。奴隷市場で賑わうニューオーリンズは人種差別の中心地であり、過酷な労働条件のもとで働かされ、リンチも日常茶飯、黒人たちにとっては恐怖の対象の土地だった。

 ミシシッピ川に逃げ込んだハックとジムは嵐に遭遇し、川岸の岩場の洞窟で一夜を明かす。翌朝、川を流れてきた家の中には、転がる死体(ジムに制止されハックは死者の顔は見ていない)こそあったが、都合の良いことに家財道具一式が揃っていた。同じように流されてきた大きな筏にその荷物を積み込んで、ふたりは川下りの逃避行へと出発する。めざすは、ミズーリ、イリノイ、テネシー各州の分岐点にあり、黒人を自由にしてくれる町ケアロであった。

 セントルイスを過ぎた辺りで沈没しかかった船を見つけたハックは、船を襲っていた3人のギャングの仲間割れを目撃する。まもなく沈んでしまう船には救命ボートが残されていたが、ハックはギャングの命綱であるそれを奪って脱出する。

 あわてて筏に戻るが、霧にまぎれてケアロをうっかり通過してしまい、おまけに巨大な蒸気船によって筏はまっぷたつにされてしまう。川に投げだされたハックは、命からがら岸までたどり着くと、グランジャフォード家の人たちに助けられる。同家は親切な人たちばかりであったが、近隣のブリッジウォーター家とは「宿縁」により闘争状態にあった。やがてロミオとジュリエットさながらの両家の息子と娘の駆け落ちがきっかけで闘争は凄惨な殺し合いへと発展、グランジャフォード家の当主と男の兄弟たち、あわせて5人が銃殺される。ハックはスキを見て逃げ出し、ジムと落ち合うこともできた。

 筏の旅は再開される。アーカンソー州の辺りでは、王と公爵を名乗るペテン師の2人組が筏に乗り込んでくる。噓八百で田舎町の人々を騙して歩く2人組であった。彼らはハックとジムを召使いとして蹂躙したあげく、しまいにはジムを奴隷として40ドルで売り飛ばしてしまう。

 ハックはここで葛藤する。逃亡奴隷を助けることはこの時代では犯罪である。売られてしまったものは仕方ないのではないか。しかしジムにハックは真の友情を感じるようになっていた。友情を取るか、法律を取るか。

 「よしわかった、ならおれは地ごくに行こう」

 ジムを助けることは、この時代、善行ではなく犯罪なのである。

 じつは同時代の人々によってもっとも問題とされたのはこの箇所であった。模範的であるべき少年小説の主人公が、いたずらの範疇を超えるような「犯罪を自らの意志でおかす」という決断。小説の刊行されている時代では、黒人奴隷の売買のほうが犯罪である。その時点ではハックは正しい。だが舞台となっている時代ではいけない行為なのである。

 さて、ハックはとぼとぼと歩いてジムが売られた先の南部のフェルプス農場までたどり着く。ジムはどうやら鎖に繋がれて幽閉されているらしい。どうやって助ければ良いのか。思案するハックの前に現れたのは、なんとトム・ソーヤーだった!

 このあとの10章、およそ100ページにわたる話は、この本を絶賛するヘミングウェイによれば読まなくてよい箇所らしい。中産階級のボンボンであるトムのワガママ(小説内の時代設定では未刊行の『モンテ=クリスト伯』の脱獄をなぞろうとする矛盾もある)に閉口しつつ、何とかジムの解放という目的をハックは達成する。ラストで判明したのは、ジムとハックの逃走の原因であるミス・ワトソンとハックの実父の死であった。

 こうして物語をたどっていくと明白だが、物語のクライマックスはもちろんハックの独白「おれは地ごくに行こう」の場面である。当時の法律は必ずしも良き人々の味方ではなかった。作者であるマーク・トウェインは、いかにアメリカ社会とは、いや人間とはいいかげんな生き物なのか、ということを語りたかったとしか思えない。善悪の基準には絶対的なものなどないのではないか。万物は相対的ではないのか。

 たとえば親たちから忌み嫌われる無学で余計者のハックと、親たちの目を盗んで罪のないいたずらばかり企む優等生トム・ソーヤーとでは、19世紀においてこそ陰と陽とに分かたれているが、時代によってはその立場や存在価値が裏返しになる日が来るのではないかということである。現に、21世紀のわれわれが読む限りにおいてだが、どう見てもハックの勇気と精神は光り輝き、トムは凡庸ないたずら小僧にしか見えない。

 マーク・トウェインが黒人差別への怒りを訴えているかどうかは、本当のところはわからない。ただ彼の親友であったヘレン・ケラーがその自伝で言及しているように、マーク・トウェインほど弱者への差別意識をもたない人間はいない、というのは事実であるように思う。彼はこう語ったそうだ。「目が見えない、耳が聞こえないなんて、サイコーに面白いじゃないか! 暗闇で歩くほどスリリングなことはないんだぜ」と。ヘレンの境遇を同情する人は大勢いたが、うらやましがる人は彼ひとりだったそうである。

 あと、指摘しておきたいのは『ハックルベリー・フィンの冒けん』は恐ろしく死体の多い小説だということである。悪人もそうでない人もどんどん死んでゆく。やり手のように見えたペテン師2人組も、終盤ではコールタールを全身に塗られ、あちこち引きずり回されるという南部特有のリンチを受けていずこかへと消えて行くから、おそらく主要人物のうち12人もが命を落とすのである。

 今回の研究社版ではケンブルによって描かれた原書のイラスト174点を収録しているが、当時の扇情的な殺人を好んでとりあげた「絵入りロンドンニュース」とほとんど同じ、19世紀特有のペン画のタッチは、この作品世界の生と死の境界の薄さを象徴している。人生の儚さなどはこの物語の主題ではないから、おそらく推理小説を意識したものではないだろうか。自らの死を偽装して逃亡するハックの仕掛けた巧みなトリックといい、ラストのページで明かされる驚愕のオチといい、本格推理小説といってもいいくらいである。そういえばマーク・トウェインはこの本のあと、SF小説『アーサー王宮廷のヤンキー』も書いている。本質は大人向けの娯楽作家なのであった。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

筆者

上原昌弘

上原昌弘(うえはら・まさひろ) 編集者・ジーグレイプ

1961年生まれ。早稲田大学第一文学部演劇科卒。大学時代、産経新聞と北海道新聞と新書館(後に入社)の3社かけもちで働く。卒論はヒッチコック。月刊コミック誌、バレエ雑誌、思想誌『大航海』などを編集。また書籍では、川本三郎『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞受賞)、『小津安二郎全集』、『車谷長吉全集』(いずれも新書館)などを編集。