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事務所を訪れたザ・ピーナッツのふたりに香港みやげを渡す渡辺美佐副社長 1963年拡大渡辺プロの事務所を訪れたザ・ピーナッツの二人に香港みやげを渡す渡辺美佐副社長=1963年

伊藤シスターズ

 1958年12月20日、東京有楽町の東京ヴィデオ・ホールでは、「ジャズコーラスの祭典」と銘打ったコンサートが開催された。出演したのは、当時のコーラス・ブームの波に乗って人気を集めていた男女のコーラス・グループである。

 当日のプログラムを見ると、男性の出演グループは、リリオ・リズム・エアーズ、トリオ・ロス・チカロス、ブライト・リズム・ボーイズ、フォー・コインズ、ロス・アミゴス、ハロナ・リズム・ボーイズ。女性の方は、クリスタル・シスターズ、ダイヤモンド・シスターズ、リトル・シスターズ、そして伊藤シスターズとある。

 出演者欄の末尾に記載された伊藤姉妹は、「マイアミ・ビーチ・ルンバ」や「ジャニー・ギター」などを歌った。前月、名古屋から上京したばかりの17歳の一卵性双生児は、渡邊晋・美佐夫妻の自宅に寄宿していた。いうまでもなくこの夫妻は、戦後日本のポピュラー音楽市場を制覇した渡辺プロダクション(以下、渡辺プロ)の創業者である。日本テレビの井原高忠が、伊藤シスターズに「ザ・ピーナッツ」と命名するのはこのすぐ後のことだ。

 ザ・ピーナッツの物語に入る前に、当時のポピュラー・ミュージックと渡辺プロのようすを記しておいた方がいいだろう。

 「ジャズコーラスの祭典」が行われた1958年は、日本のポピュラー音楽史の画期的事件となった「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」が開催された年でもある(2月4日~14日)。その前年、妹の曲直瀬(まなせ)信子に引っ張っていかれたジャズ喫茶で、山下敬二郎、平尾昌章、ミッキー・カーチスらロカビリアンたちに接した渡邊美佐が企画したコンサートである。

 1950年代初頭のジャズブームの余勢を買って夫・晋と設立した渡辺プロは、50年代後半にいたってジャズブームの退潮に直撃され、勢いを失っていた。主なタレントは、晋自らがバンドマスターとしてベースを弾くシックス・ジョーズ(58年9月に晋は演奏者を引退)を筆頭に、ハナ肇とクレイジー・キャッツ、中村八大モダントリオなどいくつかのジャズバンドだった。社長の晋も副社長の美佐も、事業の存続と成長には、次のブームとタレントが必要であることを痛感していた。

 美佐のアイデアは、ロカビリーをもっと大きな劇場へ持ち込むことだった。すでに東京ヴィデオ・ホールで「ウエスタン・カーニバル」を運営し、若い女性ファンの熱気を感じていた堀威夫(現・ホリプロ創業者)の進言もあって、まず浅草の国際劇場に提案し、それが断られるとすぐさま日劇に話を持っていった。日劇サイドも最初は渋ったが、プロデューサー・演出家の山本紫朗の援護もあって、客入りの悪い2月ならよかろうと美佐の申し入れを受け入れた。

 結果はよく知られているように大成功だった。初日の早朝から、日劇の周りには少女たちが何重にも列をつくった。演奏中の過剰な熱狂は、マスコミを通じて大きな話題になり、美佐は「マダム・ロカビリー」と呼ばれるようになった。もちろんその「名声」には、良識派の揶揄と批判がたっぷりくっついていた。

 「日劇ウエスタン・カーニバル」は、渡辺プロに何をもたらしたのだろうか。山本紫朗は、甥の和田誠につぎのように語っている。

 「渡辺プロはロカビリー歌手を土台にして、全部月給制度に切りかえたわけだ。新しい組織のプロダクションを作ったんだ」

 山本は、それまでの旧態依然たる歩合制を月給制にしたことこそ、渡辺プロがありきたりの芸能事務所から離陸するきっかけになったと語っている。「それまでは渡辺プロは普通のいわゆる芸能プロダクションと同じで、小さなもんだった。組織だってなかったんだよ。組織をしっかりするには土台がなきゃいけない。そのためにロカビリーの歌手を、たくさん引き受けたんだ」(和田『ビギン・ザ・ビギン』、1982)

 渡辺プロの「月給制」がいつ全面的にスタートしたのか、明確な日付は不明である。社史の『抱えきれない夢 渡辺プロ・グループ四〇年史(1999、以後『渡辺プロ40年史』)によれば、開始時期はもう少し前のように読める。晋を含め、中村八大・松本英彦らのスタープレイヤーに、公務員給与の約3倍にあたる3万円を月次で支払うため、経営者夫婦は火の車を回していたとある。その負担は美佐をして「月給日がくるのが怖かったですね」と言わせている。

 結果から見れば山本の言うように、ロカビリー・ブームを取り込むことで、渡辺プロの月給制は回り始めたのだろうが、美佐たちの側からすれば、ジャズの次の「ブーム」は、次の成長のためにどうしても欲しいものだったにちがいない。

 実は「日劇ウエスタン・カーニバル」を通して得たものは、月給制の維持よりもさらに大きかった。『渡辺プロ40年史』は、1958年11月期の決算が110万円の赤字を出し、経営者夫婦が実家から借金をして、資金のやり繰りをしたことを伝えながら、次のように記している。

 だが、晋と美佐はこの決算には少しも動じなかった。「この投資は間違いなく回収できる」と読んでいた。彼らはすでに経営の長期計画と短期計画を区別していた。そして、長期計画の基礎になる新しい開発商品の性格を探り当てていた。それはポピュラー・ミュージックだった。
 ロカビリー・ブームの渦中にあって、彼らはその熱気に巻き込まれることなく、ロカビリーを成立させた本流のポピュラー・ミュージックを見詰めていたのだ。アメリカン・ドリームとしてのポピュラー・ミュージック。しかし、アメリカン・ポップスのコピーに終わらない日本の大衆音楽。

 1950年代後半、歌謡曲ともロカビリーとも異なる、もう一つの動きは「コーラス・ブーム」だった。ブームを支えたのは、程度の差こそあれ、ジャズの影響を受けた多くのコーラス・グループである。

 先駆けは、1951年に慶應義塾大学ワグネルソサエティを母体に結成されたダークダックスで、当初は黒人霊歌やジャズを主に歌っていたが、「ともしび」(1957)のヒットを機に、ロシア民謡を多く手掛けるようになった。

 1955年には、デルタ・リズム・ボーイズの曲を得意とするデューク・エイセス、1958年には、早稲田大学グリークラブ出身で、往年のジャズプレイヤーである小島正雄に育てられたボニー・ジャックスが結成されている。また渡辺プロ所属のリリオ・リズム・エアーズは、前身が1940年代に遡るコミカルな味わいのコーラス・グループだった。

 女性グループでは、これも小島正雄の薫陶を受けたスリー・グレイセス(1958年結成)がいる。また冒頭で記した「ジャズコーラスの祭典」の出演者で見たように、「~シスターズ」が目白押しだった。

 単音の旋律しか聞いたことのない日本の多くの聴衆にとって、クラシック和声と異なるジャズ和声の響きはきわめて新鮮だった。彼らコーラス・グループの歌声は、人々にとってモダンそのものだったのである。痙攣的で官能的なロカビリーとは異なる、しかも湿気をぬぐい去れない日本調歌謡曲とも異なる、もう一つの歌の世界がそこにあった。渡邊夫妻が「コーラス・ブーム」に熱い視線を向けたのは当然のことだった。

発掘伝説

 伊藤シスターズは、伊藤日出代(姉)と月子(妹)という本名を持つ一卵性双生児である。愛知県知多郡常滑町(現常滑市)で1941年4月1日に生まれた。当時海軍の機関士だった父の嘉章は、臨月が近づくにつれて際立って大きくなった妻ふくのお腹を見て、男子の誕生を期待していた。伊藤家は、長女信子、次女千奈美と女の子が続いたからである。しかし大方の予想を裏切って生まれてきたのは双子の女の子だった。父と母は落胆を隠さなかったという。

 嘉章は、姉妹が2歳のときに広島県呉軍港の運輸部に転勤となり、夫妻は次女と三女を残し、長女と四女を連れて常滑を出た。2年後の敗戦により家族はひと時一堂に会したが、職を失った嘉章は名古屋へ出て、駅前の中村区西柳2丁目に、竹輪やはんぺん、さつま揚げなど練り製品を売る店を出した。夫妻がこのとき連れていったのは三女と四女、呉で生まれた悟である。こうして日出代と月子は同じ屋根の下で暮らすことになった。

 中村区堀内の新明小学校に入学した二人は、近所に住んでいた日舞の女師匠、西川里喜悦(りきえつ)の教えを受けて、あちこちの踊りのコンクールに出場し、ひんぱんに入賞するようになった。全国児童舞踊コンクールで総理大臣賞を受けたこともある。

 小学3年生の頃、日出代の方が歌をやりたいと言い出した。NHK児童唱歌隊のテストを受けて合格しせっせと通うようになったので、残された月子はひどく寂しがり、後を追って唱歌隊に入った。同じ洋服、同じ持ち物でなくては絶対に納得しない二人だったが、性格はやや異なっていたという。姉の日出代は少し意地が強く、妹の月子はおとなしかった。声の質も少し違っていたので、二人が歌うと面白いコーラスになった。

 伊藤姉妹に大きな変化が訪れたのは1957年の秋、笹島中学から進学した名古屋市立西陵商業高校の2年生のときだった。きっかけは資料によって微妙に異なるが、二人はある知遇からナイトクラブ「ザンビ」の経営者で元はジャズマンでもある谷村一、専属のバンドで演奏していた大浦郁夫について、歌のレッスンを始めたのである。大浦の指示に従ってジョージア・ギブスのヒット曲「セブン・ロンリー・デイズ」のレコードを買い、1カ月間聞いては歌い込んだその1曲を初舞台で披露したという証言もある。

 「ザンビ」で歌い始めた姉妹は、次いでこの店の関係者が開いた「ヘルナンド」にも出演するようになる。専属のバンド、スイングスターの池田というトロンボーン奏者についてレパートリーを増やし、定期的にステージに立つようになった。

 1958年の8月、ドラマーのジミー竹内から名古屋に歌のうまい双子がいると聞かされた渡邊晋がヘルナンドに赴く。晋のすすめで美佐も名古屋へ出向き、姉妹に声をかけた。

 「東京に出て、勉強してみない?」

 電車賃のつもりでテーブルに置いた1万円札と美佐の言葉が姉妹を動かした。この年11月、17歳の二人は新築成ったばかりの品川区上大崎の渡邊邸にやってきた。反対する教師と両親を説得し高校を中退しての上京である。

 このとき、美佐が果たした役割は小さくなかったことだろう。彼女は関係者たちに対して、姉妹には社会人としての常識や礼儀を教え、渡辺プロのミュージシャンにレッスンを付けさせる、十分に仕上がらないうちはデビューさせないと強調した。渡邊夫妻の自宅への同居も、育成と保護のための方策だった。

 10代の娘を送り出す親や周囲の心配を和らげるには、(マダム・ロカビリーの異名はともかく)美佐が女性であったことは効果的だったろう。彼女は渡辺プロの成長過程においてさまざまな役割を果たしたが、その中心にあるのは、経営者にして妻・母であるという両義性である。後に伊藤姉妹に続くタレントの卵たちを渡邊家に住み込ませたのは、夫妻を中心とする疑似家族制が、もう一方の月給制と相まって、タレントという“生もの”を管理し賦活するきわめて有効な仕組みであったからだ。晋と美佐は、直観的にそのことを見抜いていたはずである。

 伊藤姉妹の教師に指名されたのは、シックス・ジョーズにピアニスト兼アレンジャーとして加わったばかりの宮川泰(ひろし)である。宮川自身の著書によれば、彼は渡邊晋が伊藤シスターズを見初めた場に居合わせたもようである。宮川は、彼女たちの「突き抜けるような伸びのある声」に魅了された。「それでいてパンチがあって音程がピシッとしっかりしているから、ユニゾンで2人が同じメロディを歌うと、1人で歌っているように聴こえるんですよ」(宮川『若いってすばらしい』、2007)。

宮川泰氏。ほかのことでは仲の良い二人だが、音楽のことではケンカばかりだという 1959年拡大宮川泰氏の下、レッスンを受ける=1959年

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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