メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

無料

[書評]『現代日本の批評』

東浩紀 市川真人 大澤聡 佐々木敦 さやわか 著

今野哲男 編集者・ライター

アーカイブされていく「批評」  

 批評にかつてあった力を取り戻すにはどうすればよいか。それ以前に、いまの時代に果たしてそんなことが可能なのか。そんな差し迫った問題意識で展開された、5人の批評・評論家による共同討議の21世紀版。ほぼ同時期に出た『現代日本の批評 1975-2001』(講談社)と対をなす企画だ。それぞれの参加者がもっている批評に関するトピックとモチーフを、時系列の枠組の中で順次展開する一見オーソドックスな形式をとっている。

『現代日本の批評 2001-2016』(東浩紀 市川真人 大澤聡 佐々木敦 さやわか 著 講談社) 定価:本体1500円+税拡大『現代日本の批評 2001-2016』(東浩紀 市川真人 大澤聡 佐々木敦 さやわか 著 講談社) 定価:本体1500円+税
 2016年8月13日に行われた「共同討議 平成批評の諸問題 2001-2016」と、それに先立って同年7月13日に行われた短い討議「はてなダイアリーの時代――批評とネットの交差点」(参加者は大澤、さやわか、東の3名)を「補遺」として後ろに追加した2本が柱。いずれも監修を務めた哲学者でもある東浩紀が経営する「ゲンロン」のオフィスで収録されたものだ。

 これに加えて、「共同討議」用の資料として参加者の間で予め共有されていた佐々木敦執筆の「基調報告 ニッポンの文化左翼――ストーリーを続けよう?」を、「まえがき」代わりに配置するという、やや複雑な構成になっている。「場の空気」を可視化して、民主的で前に出る討議を生む技術を、ルソーの「一般意志」に託して追求した『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(現・講談社文庫)の著者・東ならではの、何気ないが周到な仕掛けだと言っていい。民主的な討議に不可欠な、自由でなお拡散しない論議をするために必要な「枠組み」が、実践的に準備されていると見えるからだ。

 この注意深さがもたらす魅力はほかにもある。データベースの効用である。たとえば、巻末前に配置されている縦組みの「年表 現代日本の批評 2001-2016」(作成は大澤、さやわか)と、巻末に左開きの逆向き方向で置かれた横組みの「現代日本の批評1975-2016 書籍・雑誌一覧」という2つの資料。前者では批評にかかわるこの時期の主要な出来事を、討論参加者と『ゲンロン』編集部の討議によって選び出して重要度別に4つの段階に分類し、その違いを活字の大きさによって視覚化した年表を頁注の上半分に配置、下半分には同じ手順で選んだ「批評史に関わるインターネットの動向」(並み字)と「国内外の主な出来事」(太字)を識別できるように並べてある。

 この階層化に関する繊細さと、異なる分野を無造作に並べるデータベース的な配慮が、読者個人の本書にかかわる多様な読みを可能にする。たとえば討議の流れに従いつつ、ときにこの年表を参照していると、通常の「脚注」ではあまり見えることのない、討議の流れとはまた別次元の、当該事項に関する個人的な「実存」や「歴史」が誘発されるのを感じるのだ。

 そして、この「公」と「私」という二つの流れ(「正」と「秘」と言ってもよい)を生むことが、民主的な批評の要諦なのではと思い当たる。わたしは、まず、このことに驚いた。要は、東が2001年に『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)で先駆的に示してみせた階層化された「データベース」の効用が本書においても現れており、それが2011年の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』で追及された「手続き」という民主主義のエッセンスの実践につながっていたからだ。

 さらに、批評の「場」についての同時並行的な企みもある。本書の中軸となった前述の「共同討議 平成批評の諸問題 2001-2016」が、活字化(出版)を前提に「ゲンロンオフィス」で実施された日の翌日には、「ゲンロン」の公開イベントスペース「ゲンロンカフェ」で、「ゼロ年代以降に批評はあったのか――「現代日本の批評」2001-2016を収録直後の討議メンバーが語る批評の15年」と題する、本書のアフタートークが、出版前に早くも実施されているのだ(参加者は大澤聡、佐々木敦、さやわか、東浩紀の4名)。このイベントは、「ゲンロン」主催の有料イベントのメニューの1つとして実施され、インターネットでも同時配信されて、データベースとしてアーカイブされている。

 「補遺 はてなダイアリーの時代」に「批評とネットの交差点」という副題があるわけが、これでわかると思う。もはや「批評」にあるべき現在性は、既存の枠を逸脱して流通する「場」を考えることなしに成立しにくくなっているのだ。ちなみに佐々木敦の「基調報告」には「(浅田彰や中沢新一らのニューアカによる批評の切断の先に現われて以降――筆者注)東浩紀は一人勝ちだった」という趣旨の言葉がある。自著『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009年)で使ったというこの言葉は、「「日本-現代-思想-史」を言説(コンスタティブな)レベル以上に、現象(パフォーマティブな)レベルにおいて記述しようとした同書では、他ではあり得ない結末」だったとも。つまり、ネット配信、放送メディアの多用、定期的なイベント開催、加えて出版まで自力で賄おうと試みる「ゲンロン」のコンセプトと魂の中に、批評の現在をめぐる諸問題が、良くも悪くも凝縮されているということだ。

 わたしには、佐々木のこの言葉が端的にいまの批評環境を言い当てていると思う。その中で、世に出た個々の批評に関する討議がどのように展開されているか、それは本書のお楽しみである(ちなみに、本書の「年表」で4段階中、一番大きな文字で示されている批評書は、東の『動物化するポストモダン』のほかに、古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』(現・講談社+α文庫)があるのみである)。

 2001年9月11日夜。まだ高校生だったわたしの息子は、わたしがその頃にはじめて持ったPHSに電話をくれ、「アメリカで戦争が始まった」と言った。すぐにつけたテレビ画面に映ったものは、敵の見えない不可思議な戦争だった。冷戦中に自己形成し、冷戦後の「失われた10年」を漫然とすごしていた自分にとって、それはその後に続く「わからないものとの切迫した格闘」の時代を暗示するものだった。先に「実存」と「歴史」が誘発されると言ったが、これは本書で蘇ったものの一つだ。本書は批評を語りながら、それ自体が批評になっているのだ。

 比較的安定した世界観が可能だった冷戦時代に自己形成した世代と異なり、その崩壊後の相対的に不安定な時期に青春を送った東浩紀には、2017年の毎日出版文化賞を受けた『ゲンロン0 観光客の哲学』(株式会社ゲンロン)という本がある。既存の思想の枠組みに「観光客」という流動的でノンシャランなコンセプトの光を当てることによって、グローバリゼーションが不可避ないまの環境下にあって、力が失われている旧来の大事なもの(リベラリズムとか左翼性とか平等とか分配とか、あるいは弱者とか家族とか)を逆説的に救いたい(そうでもしないと、救えない)という危機感と志で書かれた、哲学書には似合わない「熱い本」である。その彼は、本書で一見ベタなサヨクと見える雨宮処凛のパフォーマティブな活動にも何度か言及している。おそらく、古い見方だけではわからない人の一人と見做し始めているのだと思う。

 また、討議の最後近くになって、「ゲンロン」は「気合いで続ける」とも言っている。このスマートさとベタなところの衒いもない表出に、たとえば最近の「チェルノブイリ・ツアー」などに顕著な、彼の柔らかな機動性を感じることができる。そして、そこにデータベースに関する感受性を加えることで、多くの人々を民主的に集めることに成功したとき、本書でも指摘された批評環境の衰退という現象も、おそらく変わり出すのだと思う。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

*三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

筆者

今野哲男

今野哲男(こんの・てつお) 編集者・ライター

1953年生まれ。月刊『翻訳の世界』編集長を経てフリーに。「光文社古典新訳文庫」に創刊以来かかわり、また演劇体験をいかして『セレクション 竹内敏晴の「からだと思想」』全4巻(藤原書店)などを編集。著書に『竹内敏晴』(言視舎評伝選)、共著に森達也との『希望の国の少数異見』(言視舎)、インタビュアーとしての仕事に、鷲田清一『教養としての「死」を考える』、吉本隆明『生涯現役』(以上、洋泉社)、木村敏『臨床哲学の知』(言視舎)、竹内敏晴『レッスンする人』(藤原書店)、『生きることのレッスン』(トランスビュー)など。現・上智大学非常勤講師。