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[書評]『ギリシアの抒情詩人たち』

沓掛良彦 著

佐藤美奈子 編集者・批評家

東洋の眼差しが描き出すギリシア抒情詩の世界

 極上の一冊だ。これまで訪れたことのない場所に読者を連れ出し、そこから見える壮大な景色を堪能させ、詩がもつ潤いと詩を読む喜びを味わわせてくれるのだ。

『ギリシアの抒情詩人たち――竪琴の音にあわせ』(沓掛良彦 著 京都大学学術出版会) 定価:本体5200円+税拡大『ギリシアの抒情詩人たち――竪琴の音にあわせ』(沓掛良彦 著 京都大学学術出版会) 定価:本体5200円+税
 著者は、若き日にはロシア文学を学んでプーシキンやレールモントフを愛で、その後フランス近代文学に転じてバルザックやボードレールを読み込み、詩人西脇順三郎の作品に触れたことを機に地中海世界、なかでもギリシア古典の抒情詩の世界に深入りするようになった。ただ、経歴はここにとどまらない。さらにその後、これも長らく親しんだ日本の和歌や漢詩、中国古典詩に耽溺するようになり、いわゆる「東洋回帰」を果たして現在に至る。

 このような文学遍歴のある著者が、学術書としてではなく、あくまで「東洋の一読書人」という立場から、ギリシア抒情詩人たちの相貌を描き出したのが、本書である。

 この「東洋の一読書人」という立場が、鍵だ。この立場にはヨーロッパ文学だけでなく、中国の古典詩、日本の古典和歌を総体として眺めわたした、幅広く奥深い視野が踏まえられている。外国文学の専門家、あるいは特定の地域の専門家が、自らの専門領域と日本文学・日本文化を比較しながら論じ、ある視点を差し出すというアプローチはしばしば見られよう。それら1つひとつが貴重であるのは言うまでもないが、こうしたアプローチから、読者は悲しいかな、専門分野間の連関・つながりに思いを致すことがなかなかできない。

 翻って、上に述べたような幅と奥行きを兼ね備えた本書のアプローチは、文学的・歴史的・比較文化的にいっそう得難いものだ。これまでの研究生活でロシア語、フランス語、ラテン語、英語、ドイツ語、イタリア語等の文献を渉猟し、東西の古典詩に馴染み、そこからギリシア抒情詩を読み返すという著者ならではの構えが、詩や文学ひいては文化全般に対して、通常困難と思える方向から読者が接近することをも可能にするのだ。冒頭記したように、読者が「訪れたことのない場所に連れ出され」るゆえんである。

 さて、中心に据えられるギリシア抒情詩だが、現代日本人にとって馴染みやすい世界とは、やはり言えまい。仮にギリシア神話やホメロスの叙事詩に親しんだことのある読書人であっても、だ。それは主に以下の2つの理由により、ギリシア抒情詩の翻訳が絶望的に難しい作業であることと関係しているようだ。

 「詩人の脳髄に湧き出る詩の言葉と音楽とが、一体化して形を成したもの」が、ギリシア抒情詩であることが1つ。つまり竪琴によるメロディと(加えて舞踊とも)分かちがたく結びついた詩そのものの姿はどうやっても現代に復元不可能なのである(とはいえ、本書でも他書でも、著者による訳詩に触れることはできる)。もう1つは、ギリシア抒情詩がもつ「公共性、社会性」である。ポリスの祝祭において、うたう詩人個人とそれを享受する市民とが場を共有することで成り立つのがギリシア抒情詩であり、「孤独なモノローグ」ではないのだ。こうした点からギリシア抒情詩は、(典拠を尊重し修辞過多とさえ言える)ラテン詩とも、ボードレールからマラルメに至る象徴派を中心とするフランス近代詩とも、大きく異なる性質をもつ。

 このようなギリシア抒情詩の「父」とされ、「最初の抒情詩人」と呼ばれたのが、アルキロコスである。紀元前7世紀前半を生きた人だ。紀元前7世紀というと、孔子も釈迦も生まれておらず、『万葉集』成立の1400年近く前だ。そんな時代に「覚醒し確立した個の意識に明確な詩的形象を与えて、個の表出である抒情詩の時代を切り開いた」のがアルキロコスで、彼は「一代の反逆児」として「直截、雄勁で生気に満ち、溌溂とした」詩を残した。

 続いてアルカイオス、サッポー、アナクレオン、シモニデス、ピンダロス……とギリシア抒情詩を代表する詩人の作品と生涯とがほぼ時代順に紹介されていくのだが、作品を吟味・評価する著者の書きぶりこそ、最大の読ませどころだろう。

 たとえば、酒の詩で知られるアルカイオスの作品は、似た遍歴をもつ杜甫の生き方や曹操、李白の詩句と重ねられ評価される。またアルカイオスが優れた作品を残した「政治詩」というジャンルは、往古より政治との関わりが深い中国では受け入れられるかもしれないが、「『万葉集』以来ひたすら詩に抒情的なものを求めるわが国の読者」には「もっともなじみにくい」ものだ、とする。詩に何が求められるのかが文化によって違うことが、具体作を通して示されるのだ。

 恋と酒の詩で名高いアナクレオンの作品は、蘇軾(蘇東坡)が元稹・白居易を評価した言葉になぞらえて「軽にして俗」だと一刀両断される。飲酒詩については、ギリシア抒情詩は「『詩酒合一』の境地に達した中国の詩人たちとは、同日の談ではなくその落差はまことに大きい」とも。

 さらに、プラトンほか多くの欧米の近代文学者に賛美され、長く「ギリシア最高の抒情詩人」とされてきたピンダロスの作品に対しても、評価は非常に厳しい。ピンダロスを手放しに誉めそやす欧米の学者たちには、「論者は東洋の古典詩を知って断定しているのか。杜甫、李白には遠く及ぶまい」と著者自身の見解を明言する。

 ヘレニズム時代におけるギリシア抒情詩人の作品を、日本の『新古今和歌集』の作品と比較する視点もたいへんに興味深い。「学匠詩人」や、「本歌取り」という技法が生まれる必然性が理解されると同時に、日本国内でのみ流通してきた『新古今』評価に風穴を開けてもいる。

 メレアグロスの恋愛詩を紹介するくだりでは、欧米の研究者による解釈が「近代詩における恋愛詩の観念」に縛られていると警鐘を鳴らす箇所があり、これにも目を開かされる。東西の詩一篇一篇を見つめる、慈愛に満ちた眼差しが根底にあるからこその評価だろう。

 ギリシア抒情詩の世界を逍遙する枯骨閑人(漢詩・狂詩作者としての著者の号)先生の足取りは、やさしく軽やかでありつつも、重いのだ。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

筆者

佐藤美奈子

佐藤美奈子(さとう・みなこ) 編集者・批評家

1972年生まれ。書評紙「図書新聞」で記者・編集者をつとめた後、2008年よりフリーランスに。現在、講談社などで書籍編集・ライターの仕事をし、光文社古典新訳文庫で編集スタッフをつとめる。自身の読書の上では吉田一穂、田村隆一といった詩人の存在が大きい。「死と死者の文学」を統一テーマに「古井由吉論」「いとうせいこう・古川日出男論」(各100枚)を『エディターシップ』2、3号に発表。