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[書評]『保守の遺言』

西部邁 著

木村剛久 著述家・翻訳家

残された預言のゆくえ

 西部邁氏の多摩川入水を聞いたとき、なぜか1970年におきた三島由紀夫の割腹自殺事件を思い起こした。西部氏は1988年に東京大学を辞職して、評論家に転じた。最初に書いた評論が三島由紀夫論だったという。そのとき「自己の人生に自裁をもって幕を閉じる決意が固まった」と、最晩年の著書『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社)のなかで書いている。三島とは天皇観も運動論もちがっていたが、それでも三島にひかれるものがあったのだろう。

 死の4カ月前、三島は「このまま行ったら『日本』はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と書いていた。西部氏の思いもどこかそれと似ている。

 人はけっしてひとりでは死ねない。三島が「楯の会」をつくり、集団の力学で自殺したことを批判していた西部氏だが、みずからの死にさいしても幇助者を得なければならなかったのは、なんとも悲しい。

 さらにいうと、人は死ぬときはかならずひとりだが、その死に共同性をともなわないわけにはいかない。ひとりの人間の死は、どんなにちいさくても、ひとつの共同性の死としても受け止められるだろう。まして影響力の大きかった人の場合は、世の中に広く大きな感慨を与える。

 西部氏はニヒリズムに陥る一歩手前で踏みとどまらなくてはならないと語っていた。「字義通りに懸命に生きて、時至ればこれまた字義通りに懸命に死ぬという生き方」をつらぬく以外にないのだとも書いていた。その点、三島の死が政治的な死であったのとちがい、西部氏の死は生老病死の流れにみずから早々と終止符を打っただけなのかもしれない。

 それでも自裁という行為は衝撃を与える。恬澹(てんたん)と生き死ぬだけだと語っていた西部氏が、計画どおり入水したと聞くと、やはり強い力のようなものを感じてしまう。ひとつの預言が残されたとみるほかないからである。

 最後の著書『保守の遺言』を読んでみた。

『保守の遺言――JAP.COM衰滅の状況』(西部邁 著 平凡社新書)定価:本体880円+税拡大『保守の遺言――JAP.COM衰滅の状況』(西部邁 著 平凡社新書)定価:本体880円+税
 本書の終わりに、著者はみずからの絶望を救い、堕落からはいあがらせてくれたのは妻の存在であった、と4年前に先立った妻への感謝を述べている。

 しょせんこの世は無常である。人は無常のなかで恒常を保ちながら生死する以外にない。それでも、最後には感謝があった。左翼とも右翼とも闘い、戦後日本社会への批判を投げかけつづけた言論の人は、亡き妻や周囲の人に感謝をささげながら、寝たきりにならない幸せな死を選びとったのだろう。

 著者の思想は保守である。保守といっても柳田国男のように、ふるさとの「くに」を守ろうとする保守ではなく、反アメリカニズムに固執する保守といってよい。

 著者の原体験は、日本が敗北した年、えらそうな様子をした進駐軍に石を投げたところからはじまる。戦後民主主義には小学校のころから疑問を感じていた。60年安保では共産主義者同盟(ブント)の一指導者として反米闘争に加わるが、逮捕され、大きな挫折を味わう。その後、大学に復帰し、近代経済学を教えるものの、1972年の連合赤軍事件にショックを受け、それ以降、学び直して、革命思想から保守思想へと転じた。

 しかし、その過程で唯一変わらなかったもの、それが反アメリカニズムである。戦後日本の保守は概して親米の立場をとっている。これにたいし、真性保守を称する著者は、あくまでも反米を貫く。こうして、著者の主張は、時に右派を喜ばせ左派を怒らせ、また時に左派を喜ばせ右派を怒らせることになった。

 著者によれば、アメリカニズムとはアメリカに由来する風潮であり、それはむきだしの熱狂、技術信仰、拝金主義、人間中心主義、歴史と伝統の破壊を特徴とする。まさに技術貨幣的文明、インモラル(不道徳)な力である。アメリカニズムに冒された現代人は「おおむね実際主義を旨として、経済的利得や政治的権力や文化的栄誉にありつくべく、我欲丸出しで生きそして虚無のうちに死んでいる」。

 アメリカニズムはとりわけマネーフェティシズムにふける傾向がある。人びとは流行の商品に取り憑かれ、みずからの精神を市場の動きに従属させ、人間の商品化もいとわず、その結果、共同体の伝統をみずから掘り崩してしまう。

 アメリカニズム、ひいてはその根幹をなす近代主義を批判する著者の舌鋒は鋭い。まして、そのアメリカニズムが戦後日本をおおいつくしたとなれば、日本の病状は深刻といわざるをえない。著者には戦後日本がどこを見渡してもアメリカに毒されているとみえてくる。憲法しかり、民主主義しかり、自由主義しかり、大衆(マス)社会しかり、マスメディアしかり、資本主義しかり。こうして、戦後日本からアメリカニズムの影響を排除するための、著者のいう真性保守の闘いが八面六臂にわたってくり広げられることになる。

 読んでいて息苦しくなるほどだ。

 まず民主主義なるものを疑うべきだ、と著者はいう。デモクラシーを民主主義と訳すのはあやまりで、民衆政治と呼ぶのがただしい。民衆政治は衆愚政治と紙一重だ。古代アテネの政治をみてもわかるように、「デモクラシーは、独裁者をもたらすかもしくは衆愚のポピュラリティ(人気)にほぼ完全に左右される」のが落ちである。とうぜん議会への不信感は強い。

 自由にしても、社会秩序を無視した「個人の自由」などはありえない。過剰な格差は問題だが、過剰な平等も避けられねばならない。社会保障の目的は弱者を保護すること自体にあるのではない。あくまでも社会秩序を守り、社会の活力を維持することにある。

 戦後日本で進展したのが大衆化、正確にはマス化である。大衆にはまだ一般庶民という肯定的なニュアンスがあるが、マス化はそうではない。マス化は俗悪化以外のなにものでもない。

 いまは人がバラバラに生きるマスの時代である。大量生産される商品の回りに群がるマス、選挙に集まるマスが流行に合わせて、浮かんでは消えていく。人気主義(ポピュリズムならぬポピュラリズム)が政治も経済もだめにしている。多数派の人気がすべてを左右する愚かな現代文明は、不治の狂気におちいっている、と著者は断言する。

 日本は戦後、宗主国アメリカに従属し、国家の誇りを奪われてきた。自尊と自立を失った国は空無と屈辱におちいるほかない。実力なき言葉だけの外交が無力なのは、けっきょく現在の外交がアメリカ追随におちいっているためだという。

 一人前の国家なら国防軍をもつのはとうぜんのことだ。それを認めないのはどうかしている。日本は強力な軍隊をもち核武装を推し進めなければならない、と著者は主張する。それによってはじめて、日本は「武力と言葉」を巧みにつかいこなして、米中露3大国を相手に合従連衡の外交戦を展開することができるのだという。

 日本が核をもつのは、核戦争をするためではない。核を「報復核」としてしか用いないと宣言することで、ほんとうの意味での戦争抑止力が生まれる。現在の「核の傘」は、日本を保護領にとどめようとするアメリカのくわだてにほかならないというのが、著者の見方である。

 憲法と日米安保、自由民主主義とマス社会が日本をおかしくしているとしたら、それ以上に問題なのが資本主義だ、と著者はいう。

 現在の企業は支配欲動にかられて拝金主義に傾き、イノヴェーションを追求するあまりに、被雇用者をないがしろにすることもいとわない。人びとは商品の論理にあやつられて、ロボットやサイボーグと化している。投機や詐欺、社会的格差の拡大も、企業の行動と無関係ではない。イノヴェーションによる社会秩序の劣化がいつまでも許されていいわけがない。国家が資本主義に歯止めをかけ、経済を統制しなければならない、と著者は主張する。

 こうして、著者は国民社会主義(刺激的に言い換えればナチズム)だけが未来に可能な国家像だとの結論に達する。国民社会主義が重視するのは公共性の強化、国家の強靱化である。日本は保有している巨大な資産を用いて、さまざまなプロジェクトを立ち上げ、とりわけ食糧・エネルギーの自給度向上と都市住環境の再整備をはかるべきだという。

 世界は多極化し、すでに世界大戦の前哨戦にはいっている、と著者は感じている。だが、現行の安保体制下では日本はアメリカに追随せざるをえず、そこから脱却して独立するには核を保有しなければならない。そして、厳しい世界で生き残りをはかるために、日本は外交戦を展開して国家を防衛するだけでなく、公共性を重視し、経済の統制を強めねばならないという。

 また、戦時体制が近づきつつあるのかというのが、ぼくの率直な懸念である。快哉を叫ぶどころか、正直いって気が重い。

 戦後日本のよさは、アメリカなどとちがって、戦争をしない国というところにあったのではないか。それがだんだんと失われつつある。もうひとつのよさ。それは、ふつうの人が国からの圧迫を受けずに、節度を守りながら自由に気楽に暮らしていける社会、不幸や病気や災害など困ったことがあれば、国やまわりの人が助けてくれる社会。そうした社会を日本はめざしていたはずなのだ。

 いまはまた国家が強くなりはじめている。国家による規律や監視がどんどん強まり、社会がぎすぎすし、自由で気楽な雰囲気が失われようとしているのは、とても悲しいことだ。

 舌鋒鋭い著者の預言にたじろぎながら、ぼくはそんなことを感じてしまう。だが、時代はすでにそう甘くなくなっているのかもしれない。

櫻田淳 追悼・西部邁――保守論客の「光」と「影」(WEBRONZA)

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

木村剛久

木村剛久(きむら・ごうきゅう) 著述家・翻訳家

共同通信社で長く書籍を編集し、『妻たちの思秋期』(斎藤茂男)、『もの食う人びと』(辺見庸)のほか、『マクナマラ回顧録―ベトナムの悲劇と教訓―』(R・マクナマラ)、『現代史』上・下(ポール・ジョンソン)などを手がける。自身の訳書・共訳書に『国民の天皇』『紀元二千六百年』(共にケネス・ルオフ)など、著書に『蟠桃の夢―天下は天下の天下なり―』(トランスビュー)がある。