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[書評]『合成生物学の衝撃』

須田桃子 著

堀 由紀子 編集者・KADOKAWA

「パソコンが生んだ生命」が突きつける難問

 遺伝子を組みかえた作物やデザイナーズベイビーに漠然とした不安を感じるのはなぜだろう。「害虫に強いトウモロコシが作れます」「病気の原因となる遺伝子の箇所を取り除くためです」「子どもが幸せに生きていけるように、背を高くして、優秀な頭脳を持つようにしてあげたいです」――そう言われれば、なるほど、とも思う。

 一方で、地球誕生後40億年ものあいだ、生命は人間の手の届かないところで生み出されてきた。そのことへの畏怖のような気持ちもある。

 そんなもやもやした思いの先を行く現実を報告するのが、本書『合成生物学の衝撃』(文藝春秋)だ。すでにある遺伝子を改変するのではなく、ゼロから生命を生み出すことにも成功した、というのだ。

『合成生物学の衝撃』(須田桃子 著 文藝春秋)定価:1500円+税拡大『合成生物学の衝撃』(須田桃子 著 文藝春秋) 定価:1500円+税
 その生命は、コンピュータ上で設計され誕生した。人類史上初めて人工生命体が誕生したのは2016年のことで、「ミニマル・セル」と名づけられたその生物が本書の表紙を飾っている。ミニマル・セルは1個あたり、1マイクロミクロン(1万分の1mm)ほど。どこにでもありそうな微生物のようだが、ほかの生命体との大きな違いは、親が存在しないことだ。

 著者の須田桃子氏は、STAP細胞報道をリードし、その顛末を記した『捏造の科学者――STAP細胞事件』(文藝春秋)で大宅壮一ノンフィクション賞なども受賞した毎日新聞の科学環境部の記者。『捏造の科学者』では、事実を掘り起こそうとする取材チームの様子が生き生きと描かれ、わたしも一気に読んだ。

 その須田氏は、2016年9月からノースカロライナ州立大学遺伝子工学・社会研究センターに客員研究員として滞在していた。そこで研究、取材をしていたのが、1990年代に誕生した合成生物学だ。この分野がなぜ、わずか30年ほどの間に劇的に進歩し、人工の生命体を誕生させるまでになったのかを追う。著者は、懸念や不安を当事者たちに直接ぶつけ、ぐいぐいせまる。本書の読みどころのひとつだ。

 ミニマル・セルは合成生物学の現在においては最大の「成果」なのだが、本書では、そこにいたるなかでのさまざまな研究も報告する。たとえば、ある種を撲滅させたり、兵士を“強化”させる目的の研究などだ。

 種を撲滅とは空恐ろしいと思う。でもこう聞いたらどうだろう。

 「蚊を媒介にした多くの病気があります。デング熱やジカ熱、日本脳炎……。アフリカではマラリアで2分に一人の子どもが亡くなっています。今いる蚊を、特定の病原体を運ばないように操作された蚊に代えてしまうことが技術的には可能なのです。もしくは蚊自体を撲滅させることもできますよ」

 兵士の“強化”というのは?

 「兵士は苛酷な環境で戦わなくてはならないこともあります。モルヒネよりも効果的に、かつ認知能力を妨げずに痛みを軽減できたらどうですか。どんな感染症にもかかりにくい製薬も研究しています。実現すれば、民間にも転用できますよ」

 兵士が闘わない、そう聞けば、「なんだか気味が悪い」とばかり言っていられない。

 ただやはり、わたしは不安をぬぐいきれなかった。研究者たちのこんな無機質さも気になる。

 研究チーム内では、DNAを細胞に入れることを「インストール」と呼んでいるという。DNAを移植した細胞は、まるで新たなソフトウエアをインストールされたコンピュータのように、DNAの指令に基づき、劇的に変化していくからだ。(中略)
 DNAがソフトウエアであり、細胞がハードウエアだとすれば、ソフトウエアを変えればハードウエアの働きはまったく変わり、やがてハードウエア自体も作り替えられてしまうのである。(P201-202)

 機能だけを見ればいいたとえなのだと思うが、違和感を覚えるのだ。細胞だよ、生命の元だよ、と思わずにはいられない。

 合成生物学の劇的な進歩も気になる。分野が誕生して30年ほどで、40億年の人類史の中で初めて、生命体を誕生させるまでになった。30年後はどうなっているのだろう。ミニマル・セルがより大きく、複雑化し、「だれかにとって都合のいい人間」が誕生しないといえるだろうか。

 著者は言う。

 私は宗教を持たず、基本的に科学を愛している。だから「“神”がそれを許すだろうか」と考えたことはない。しかし、母なる地球に暮らす多様な種の一つにすぎない私たち人類が、私たちだけの目的のために進化の担い手となり、他の種の生命の設計図を大胆に書き換えたり、新たな種を創造したりする権利があるのだろうか?(P212)

 正直に告白すれば、生物の知識が中学校で習ったままストップしているわたしにとって(それも数十年前だ)、本書は専門用語も多く、難解に感じる部分も多々あり、読み進めるのは簡単ではなかった。それでも、「遺伝子を操作するなんて怖い」と思考停止した状態から、少しかもしれないが変化したと思う。

 今、この瞬間も多くの研究者たちが新しい生命を誕生させようと躍起になっているだろう。本稿では触れなかったが、合成生物学と米国防総省との接近も気になる。ミニマル・セルの姿を思い出しては、あれこれ思いを巡らしてしまう。生物学をとりまく現状を知り、考え続けていきたい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

*三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

筆者

堀 由紀子

堀 由紀子(ほり・ゆきこ) 編集者・KADOKAWA

1975年、山梨県生まれ。1999年より角川書店で、主婦向けのテレビ誌「しってる?」、スポーツ誌「SPORT Yeah!」、都市情報誌「横浜ウォーカー」の編集に携わる。2012年より書籍編集に。担当した書籍は、柳田国男復刊シリーズ(角川ソフィア文庫)、黒田勝弘『隣国への足跡』、望月衣塑子『武器輸出と日本企業』、室井尚『文系学部解体』、柴田一成『とんでもなくおもしろい宇宙』など。ハードボイルド小説と自然科学系の本が好き。