常に対象との距離を保つ
2018年05月15日
高畑勲監督の死を悼む(下)――問い続けた「眠らない知性と理性」
高畑勲監督のありし日の言動を通じて、そこに込められた思いを振り返ってみたい。
「高畑です」
高畑勲監督は講演や舞台挨拶の登壇の際、必ず一言目にはそう口にしていた。
「アニメーション映画監督の」「スタジオジブリの」といった肩書きを口にしているのを聞いたことがない。
何度も名刺交換の場に居合わせたことがあるが、もらう一方で自ら手渡している姿を見たことがない。おそらく名刺は持っていなかったと思う。それもそのはずで、高畑監督はスタジオジブリの正社員でも役員でもない。スタジオジブリとは映画1作ごとに契約して監督をされていたと思われ、任期が終わればフリーだった。スタジオジブリのことを「会社」と語ることが多く、一定の距離を感じさせた。
常に独立独歩の個人であるという立場を保ち、特定の団体・企業の意思に従って発言したり、行動を規制されることを嫌う方だった。あくまで個人の意思で働き、創作するのだという姿勢に貫かれていた。年齢や役職にかかわらず、他者と一定の距離を保とうとしていた。多くの場合、誰に対しても敬語で接していた。
ただし、怒りを露わにする時は別だった。いい加減な言動やケアレスミスにはとても厳しい人だった。自らのミスにも同等に厳しく、過去の自筆原稿の些細なミスを見つけては機会あるごとに「あれは間違いでした」と訂正していた。つまらないプライドよりも正確性を大事にされていた。
2015年7月、護憲を訴える都内での集会「戦後70年 憲法9条のいま」で高畑監督の講演が行われた。司会の方は高畑監督を紹介する際、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーの著作『仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場』(2014年)の記述「(『おもひでぽろぽろ』制作準備中)日本で発売されている紅花の本を全部集めさせていました」を引用し、その徹底ぶりを称えた。直後の登壇で、高畑監督の第一声は「今の紹介にあった『全部集めさせた』という下りは事実ではありません。そんなことは出来っこありません」というものだった。そして、実際に調べた図書や紅花製造工程の取材内容を展開して具体的に訂正した。鈴木氏の記述は「それほどこだわりがあった」と強調する意図が込められていたと思われるが、高畑監督にとっては事実と異なる誇張として看過出来ないものであった。
話し言葉にも文章にも厳しい人だった。
「お世話になっております」といった社交辞令も「ご無沙汰しております」という挨拶も好まなかった。メールも1行目から単刀直入に要件を記さないと「くどい」とお叱りを受けた。
用語にも様々なこだわりがあった。1990年代半ばまで、高畑監督は様々なコマ撮り技法を包括した「アニメーション」と日本製セルアニメーションを示す「アニメ」を明確に使い分けていた。2000年代からは自らの理想とする線で描くアニメーションを「漫画映画」という用語で括り、「アニメ」と使い分けていた。
2000年7月、川崎市民ミュージアムの企画展「アニメ黄金時代 日本アニメの飛翔期を探る」で、高畑監督の対談イベントが行われた。終了間際の質疑応答で客席の少年が手を上げた。「映画監督になるにはどんな勉強をすれば良いでしょうか」という質問だった。少年は確か高校受験を控えた中学3年生だった。高畑監督は厳しい口調で次のように応えた。
「映画監督に資格はありません。1本撮れば、あなたも今日から監督です。その後何も撮らなくても自称は出来ます。肝心なことは何を撮るかです。あなたは、まずそれを見つけるべきです」
会場が一気に緊張したことを憶えている。相手が中学生でも社会人でも、高畑監督の態度は不変であったろう。
肩書きは所詮は空の器に過ぎない。そこに何を盛り付けるのか、どんな内容の映画を撮ったのかが最も重要なのだ、という自らの姿勢に沿った主張であったと考える。
筆者は約25年間、公私共に様々な場所で高畑監督とご一緒する機会があった。
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