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[書評]『私はすでに死んでいる』

アニル・アナンサスワーミー 著 藤井留美 訳

中嶋 廣 編集者

脚を失くして狂喜する患者

 これはショッキングな本である。全部で8章から成り立っており、その最初に出てくるのがコタール症候群の患者の話である。「私はもう死んでいます。精神は生きているけど、脳は自殺未遂をしたときに、死んだのです」。この種の患者は、自分が死んでいると言うだけでなく、さらに自分は存在すらしていない、と言うこともある。

『私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』(アニル・アナンサスワーミー 著 藤井留美 訳 紀伊國屋書店)定価:2200円+税『私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』(アニル・アナンサスワーミー 著 藤井留美 訳 紀伊國屋書店) 定価:2200円+税
 コタール症候群の患者は極度のうつ状態に陥るが、自殺する者はほとんどいない。だってもう死んでいるのだから、もう一度死ぬ必要はないわけだ。

 この本は、神経科学における興味深い8つの症例を取り上げ、最後に、いったい自己とは何であるかを探求したものである。その8つとは、コタール症候群、認知症、身体完全同一性障害(BIID)、統合失調症、離人症、自閉症、体外離脱、恍惚てんかん。

 どれも面白いが、ここではとびきり興味深い、コタール症候群と身体完全同一性障害(BIID)を紹介しよう。

 コタール症候群には特徴的な妄想がある。それは脳だけが死んでいるという現代的な妄想で、これは医療現場で最近出てきた脳死の概念に関係している。つまり形のない精神が、形ある脳から独立して存在しうるとする発想だ。脳は死んでも精神は生きている、これは究極の二元論的妄想である。

 神経科学的には脳の内部のどこを触れば、どの程度よくなるか分かっている。しかし短絡的に因果関係を決定するのは危険だ。脳内の物質的な作用から、どうやって精神が生まれるのかは、相変わらず謎だからだ。

 身体完全同一性障害(BIID)では、患者は身体の一部、腕とか脚を切り落としたい、という強烈な欲求に取り憑かれている。そんな患者が本当にいるのか――いるのである。しかし表立って腕や脚を切り落とすわけにはいかないから、すべては闇の医者に託される。

 本書では脚を切り落とす手術の一部始終に、著者が付き添っている。もちろん手術は非合法で、病院側もだまされている。つまり医師個人が病院内でこっそりやっていることで、そうまでして患者はとにかく手や脚を、死ぬほど切り落としたいのだ。

 これは身体の内部感覚と、現実の身体にズレが生じており、言い換えればアイデンティティ障害といえよう。この感覚はなかなか理解しづらい。著者はそこを率直に書く。「翌日麻酔から覚めた彼は、下のほうを見てみた。『信じられない。足がなくなってる。うれしくて我を忘れそうだった』」。

 要するにペンフィールドのいう「身体の脳内地図」が歪んでいるのだ。しかし脳内地図が歪んでいると、なぜ身体の切断欲求につながるのか。

 著者は科学ジャーナリストで、エピローグでは自己を突き詰め、ついには西洋文明全体をぐらつかせる。その手際は鮮やかだ。しかし最後にいつも、あの問いが顕われる。なぜ、物質が精神を生みだすのか。なぜ、無限に広がる宇宙が、私という人間を生みだしたのか。

 個人的な話をする。私は3年半前に脳出血で倒れた。ICUを出て、一般病棟に移ってからは、眠れなくて困った。というか、昼となく夜となく、いつもぼうっとしていた。自分の行く末を考えると、堂々巡りは果てしなく、奈落に落ちていくようだった。言葉を発することができないということは、かくも苦しいことなのか。

 そのとき、自分には考えるだけの力がない、今はとにかく考えまいとする、もう一人の自己が顕われた。そこで私はかろうじて助かった。このとき顕われた自己は、第二の自己である。でも実は、このとき顕われた自己は、私からは遠いところにあった気がする。たしかに、なぜかそう思ってしまう。

 本書に顕われた自己は、奇怪な、おぞましい場合も含めて、その遠いところの自己と近いのではあるまいか。それを自己と呼んでいいものかどうか。私は著者とは異なり、もう一つ別の次元に、自己でも他人でもない、得体の知れないものがいる、そんな気がしてならない。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。