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[書評]『法学の誕生』

内田貴 著

松澤 隆 編集者

行方不明になりかけている「思考枠組」

 心にひびく本だ。多くの専門教科書を著している民法学の泰斗が、専門領域を離れ、近代日本で「法学」が求められた意味、果たした役割と、今に至る問題点を分かりやすく説いている。

『法学の誕生――近代日本にとって「法」とは何であったか』(内田貴 著 筑摩書房)定価:2900円+税『法学の誕生――近代日本にとって「法」とは何であったか』(内田貴 著 筑摩書房) 定価:2900円+税
 しかも著者は大学退職後、120年ぶりの民法改正(2017年成立)に、法務省の<役人>として関わった。教授時代、<お客さま扱い>してくれた官僚・財界・実務法曹家は、<立法という利害打算の渦巻く政治プロセスの土俵の上で>、手ごわい折衝相手と化した。結果、<政策形成における経済学のウェイト>と、<法学への評価の低さと実務重視の姿勢>を、思い知る。

 早計な読者は「その意趣返しに、《法学》が最も尊敬された時代の昔話か」と思うだろうが、そうではない。そもそもの端緒は教授時代、<法学そのものの概説ではなく、法学の前提となる教養が何であるかに焦点を置いた入門書>を、という依頼だった。だが、その「前提」を熟考していくなかで、明治とそれ以前の<文化的土壌>と、明治日本が受容しようとしたヨーロッパ(とくに19世紀)の<文化の根底>を深掘りする必要を感じたらしい。これは「法学」にも「法律」にも知識や興味が薄い(自分を含む)一般人には幸いだった。「法」という媒介を通じ、近代化の意味を再確認し、そもそも「法」は我々に何をもたらすかという根源的な主題に近づくきっかけも与えてくれるからだ。

 本書は全9章から成るが、おおむね5章までで、明治日本の<文化的土壌>と、ヨーロッパの<文化の根底>が論じられている。これだけでも十分、面白い。幕末、欧米列強と結んだ不平等条約の改正と、その大前提としての様々なインフラ整備や文化施策こそが近代日本の出発点だったことは、高校の教科書にも書いてある。しかし、19世紀の英仏独それぞれの国柄に基づく「法」の概況や、未熟な日本の国情と変化する国策、それに応じた関係者たちの刻苦と暗闘を、これほど鮮やかに読ませる著述はあっただろうか。

 各章には、L.ハーン、鴎外、漱石のような「法」と直接関わりない著名人や、大逆事件のような明治の「法」が直接問われた有名事案も出てくる。一見バラバラの人物・事象であっても著者の手で明快につながり、点が線となり線が面となって得心に向かうという箇所が少なくない。真摯な学究態度の発露なのか膨大な注があるけれど、研究者でない我々は、それを逐一参照するには及ばないだろう。何しろ卓越した文章力に牽引されて、ページを繰る手は止まないのだ。かくして「法」の視点から明治・大正の実情に触れる興奮は高まり、日本が必要とした「欧米の近代法」の流れを理解する契機に快感すら覚える。

 しかし、である。本書の真価は、5章までを「前提」とした6章以降にこそ顕れる。例えば、古来「伝統」とされた「家/家族」観と、それに基づく「国体」論が、いかに<創られた伝統>だったかを、当時の「法」の専門家たちの論旨から探り、明らかにする。

 これはもう、面白いでは済まされない。読者は、いつの時代であっても<国民の忠誠心を調達>(この「調達」を著者は繰り返す。そのニュアンスは興味深い)する道具としての「法」の創出過程に粛然、いや、慄然とするだろう。じつは本書の構成は、全体としては、穂積陳重(1855‐1926)、穂積八束(1860‐1912)という、両人とも東京帝大法学部(法科大学)長を務めた兄弟の事績をたどり、彼らの研究対象を読み解く、という体裁をとっている。従来、兄陳重(民法起草者の一人)は、英独に留学して西洋法学の歴史を究め、その受容に邁進する一方で日本の古俗研究に熱心だった「日本初の法学博士」ながら過去の遺物視され、弟八束(憲法学者)は、政界に深く関わり「国民道徳」を創唱して国家主義のイデオローグとなったため今では全否定されているという。

 この2人を、著者は再検証していく。兄陳重の西洋法学理解は、(社会進化論の影響という時代の制約を受けつつも)ただの模倣ではなく、<日本の伝統を西洋の(つまり普遍性のある)土俵の上で正当化するための武器>であったとし、弟八束の国家観も、当時のドイツ法学から習得した正当な<法理>の枠内のものと説く。また、兄陳重が、<法は社会力である>(1918年)と主張し、老人福祉や女性の地位向上に深く関心を寄せた論考も紹介する。さらに陳重が、「君主」も<社会力の機関たるに過ぎぬ>(1924年)と断じた根拠を、「君主の意思も社会力の表現」ゆえという刮目すべき解釈から導いている(なお陳重は幸いにも昭和直前に逝ったため、「天皇機関説」事件から免れ得た。一方、八束が唱えた「国民道徳」と家族国家観は、八束の歿後に<法理>の枠を超えてゆく)。

 もちろん、2人の再評価が著者の目的ではない。2人の時代と事績に象徴される受容の過程が眼目である。単純な移植や解釈ではなく、持たざる国が近代化のため試みた母国語による思考法の確立こそ「法学」の受容であり、それなくして「法」は運用できない。「法」は書き換えても、「法学」という<思考枠組>は普遍性を持つという命題こそ、本書の核心であろう。

 だが、そうした著者の意図に共感してきた読者は、あとがきの<もはや日本のモデルは西洋にない。そのような意識が法実務界に強固に存在している>という警告に、胸を突かれる。それほど、この国の「国民」は成熟し、<法は社会力>に値する「社会」になったのだろうか。あるいは、100年以上前に<誕生>した「法学」という<思考枠組>は、(著者の理想を投じた)幻影だったのだろうか。いや、<誕生>後、ずっと育んできたはずの《愛児》の行方不明にすら気づいていない時代を、我々は生きているのだろうか。重い読後感が残る。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。