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[書評]『草薙の剣』

橋本治 著

佐藤美奈子 編集者・批評家

「時代」がたどり着いた「誰もいない世界」

 昭生(62歳)、豊生(52歳)、常生(42歳)、夢生(32歳)、凪生(22歳)、凡生【なみお】(12歳)――各世代を代表する6人の男性の人生を中心に物語は進む。

『草薙の剣』(橋本治 著 新潮社)定価:1700円+税拡大『草薙の剣』(橋本治 著 新潮社) 定価:1700円+税
 彼らの父母、祖父母の人生までたどられるから、時期でいうと昭和のはじめから平成の現在に至る日本社会とそのなかで生きる人々の姿が、作家により照らし出される。

 「人々の姿」と書いたが、本作で焦点が当てられる「人々」とは、例えば強く際立つ個性を備えた「人々」でもないし、その内面や心理に重きを置いて作家が描くことが可能な個人の集まりともいえない。懸命に生きながら世相のなかで右往左往し、みずからの内面を見つめようとしたりそれを言葉にしようとする意思や意識を、そもそも持たない「人々」だ。

 そういう「人々」が生きてきた(生きている)戦中・戦後の混乱期、高度経済成長、バブルとその崩壊、そして「失われた20年」という時間とは、いったい何だったのか。そういう「人々」が作ると同時に享受してきたものとしての「時代」が、この小説を動かす主エンジンである。

 小作農の次男として生まれ水道工事の職人となった父を持つ昭生は、父の跡は継がず、兄のいる「豊か」になった都会に出て働くことを選ぶ。母親の介護をきっかけに、後年再び故郷に戻る昭生だが、終盤、「俺の人生は結局なんだったのかな」との声を漏らす。

 豊生の父は養子に入った家で空襲にあい、早くも国民学校高等科2年(13歳)のときに養父を亡くす。養母を大切にしながら、成人後も転職を繰り返し、学歴の無さによる辛酸をなめては田中角栄の半生から励ましを得る。息子の大学進学に際し「俺の息子が大学に行くなんてなァ」と独りごちる父だが、戦後が与えた「自由」のなかで育つ豊生が身につける価値観は、すでに父とはかけ離れたものだ。大学卒業後、今でいう「フリーター」となる豊生は、40歳を過ぎると仕事が見つからなくなり、その後は自宅で「引き籠り」に。

 1960年代後半、学生運動が盛んな時期の大学で同じサークルに属していた両親を持つ常生は、ゲーム&ウォッチからファミコンへ、というゲーム機の進化とともに成長する。そうしたなか、「いつの間にか『なにかに熱中する子供』ではなくて、『それを外から眺めて、達成感というものをあらかじめ仕入れてしまう子供』になっていた」。「緊張を強いられた苛酷な受験勉強や、就職の際のままならぬ危うさが、飢餓感のような形で残っていた」母親世代――ベビーブーマーとは対照的に、常生の周りには「貧しさ」のかけらすら無い。

 松田聖子に憧れ、「愛する人との幸福な時間が永遠に続くこと」が結婚だと思い20歳で結婚した母を持つ夢生は、小学5年生で両親の離婚を経験する。中学2年で「いじめ」にあい、高校2年からはずっと家に引き籠ったままだ。

 それにしても、本作における「分からない」という語の頻出度はものすごい。何が「分からない」のかといえば、父母の考えであり、息子達、娘達の気持ちであり、時代の変化やみずからが置かれている歴史的土壌であり、「本当のこと」だ。「分からない」と思うことは、「分からない」からこそ先送りにされ、無いものにされ、やがて「分からない」と感じた本人の記憶からも消えていく。本作の冒頭とエピローグに描かれる「誰もいない世界」――ただし目を凝らすと「害のない者」はいる――はあたかも、この「分からない」を放置した末の、「時代」がたどり着いた現在地点を示すようだ。

 「分からない」に囲まれて生活し、内面の言語化に馴染みのない登場人物のなかにもしかし、微かな変化を自覚的に経験する者がいる。有名大学の法学部を卒業後キャリアウーマンとなり、「できちゃった婚」をした母に期待されて育った凪生は、高校2年時、3・11大震災のあとボランティアとして被災地を訪れる。そこに1週間滞在して帰宅した3日後、東北の地で「感じていてそのまま形にならなかった思いが、突然言葉になって胸の中に立ち上がって来る」。それは「僕達がスタートする場所はここ(斜体は原文では傍点)なんだ」という言葉である。「ここ」とは「なにもない被災地」を指す。また夢生は、祖父の死を機に「恥ずかしいと思って避けていた『引き籠り支援サイト』に連絡をしてみようと思」う。そのとき夢生は、中学生の一時期通った塾で女性講師にかけられた言葉を通して、「本当のこと」が「分かる」経験をしていたことを思い出すのだ。離婚した両親の狭間で窒息寸前に陥っている小学6年生の凡生は、状況の理不尽さを言葉にし絶叫することで、父に対し「生まれて初めての反撃」を試みる。

 「草薙の剣」とは三種の神器の一つで、「ヤマトタケルのミコト」が陥った窮地を脱するための武器である。ただ、敵に放たれた火を迎え撃つ「向かい火の法」を実行するには、周囲の草を薙ぎ払うための剣だけでなく、その草に火をつける「火打ち石」こそが必要だった。「火打ち石」には「草薙の剣」のように立派な名前は付いていないが、敵に立ち向かうには剣より「更に重要」なのだ。「見えない墻壁【しょうへき】に隔てられて思いを内へ内へと収め込んでしまう者にとって、『立ち向かう』ということは思いつくさえも容易なことではない」。作家にこう評される「人々」が作る現代的世界のなかで、凪生に去来する言葉、夢生に訪れる変化、凡生が発する絶叫はみな、敵に「立ち向かう」きっかけを作る「火打ち石」なのである。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA 「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

佐藤美奈子

佐藤美奈子(さとう・みなこ) 編集者・批評家

1972年生まれ。書評紙「図書新聞」で記者・編集者をつとめた後、2008年よりフリーランスに。現在、講談社などで書籍編集・ライターの仕事をし、光文社古典新訳文庫で編集スタッフをつとめる。自身の読書の上では吉田一穂、田村隆一といった詩人の存在が大きい。「死と死者の文学」を統一テーマに「古井由吉論」「いとうせいこう・古川日出男論」(各100枚)を『エディターシップ』2、3号に発表。