メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

無料

[書評]『パンと野いちご』

山崎佳代子 著

西 浩孝 編集者

個人の運命を詠うバラードの「語り」

 「ヨーロッパの火薬庫」バルカン半島。第一次・第二次大戦、ユーゴスラビア内戦、コソボ紛争と、こんにちに至るまで戦火が絶えない。この土地では、異なる民族が対立し、ひとびとは故郷を追われ、命からがら逃げまどった。だが、どんな状況であれ、人は食べずには生きられない。生きるために食べ、食べるために生きるのだ。

『パンと野いちご 戦火のセルビア、食物の記憶』(山崎佳代子 著 勁草書房)定価:3200円+税拡大『パンと野いちご――戦火のセルビア、食物の記憶』(山崎佳代子 著 勁草書房) 定価:3200円+税
 本書は、1981年にベオグラードに移住し、90年代を内戦のなかで過ごした著者が、食の記憶を手がかりに、難民となった30人あまりの友人たちの、戦争をめぐる「語り」を記録したものである。

 なじみのない地名、人名、複雑な史実ゆえに、最初は読みにくいと感じるかもしれない。しかし、ひとりひとりの「語り」の細部、その豊かさに、読む者は魅せられるはずだ。ここには、報道や歴史研究からはこぼれ落ちてしまう言葉の美しさ、味や香り、色合いや肌触り、重さと軽やかさがある。それは著者が言うように、「宝石のような輝き」を放っている。

 語り手の一人は言う。「食べ物とは、ただ食するもののことではない。食べ物とは思い出であり、料理とは甦りのことである」と。またこうも言う。「食べ物とは、心配、恐怖、愛、秘密の話などをみんなで分け合う場所」なのだと。本書のなかのいくつものエピソードから、これらの言葉の意味を理解することができる。

 ある女性は、戦争で何ひとつ買えなくなったとき、今まで焼いたことのなかったパンを焼いた。2キロの小麦粉、生イーストの塊をひとつ、水を加えてよく練る。パンの生地を丸い形にまとめ、温めておいた鉄板にのせて蓋をする。そこに燃えている薪といっしょに灰をかぶせる。こうして45分ほど焼く。火加減がむずかしい。最初にうまくいったとき、みんな大喜びした。「それは素晴らしいパンだった。世界でいちばん美味しいパンだった」。

 都市部に疎開していたある男性が語る。最初は腐りやすい食べ物を分け合い、食べられるものをすべて食べてしまうと、次はマカロニ、麺類、ジャムの番になった。それらがすべて底をつくと、建物の周りに萌えているイラクサの若葉を摘んできてスープにした。やがてその茎さえも食べ尽くすと、飢えた家族同士でけんかが始まった。当時いちばん小さかった彼は、みんなに気づかれないように、古い戸棚に残っていたジャムの瓶を取り出し、まず指で、次に鉛筆で、それからプラスチックの定規で、最後のひとさじまでこっそりと食べ続けた。

 クロアチアで難民となり、コソボ、ベオグラードへと逃れた女性は、NATO(北大西洋条約機構)による空爆中に一度だけ、ズッキーニの肉詰めホワイトソースあえを作ったと話す。なぜかはわからないが、それから二度と作っていない。「料理をするということは、正常な気持ちを生み出してくれる、それは異常なことが起こっていることに対する抵抗でもあるのよ。空爆中、私たちが住んでいた地区はね、秘密警察のボスと言われる男の人が住んでいた地域で、どういうわけか停電がなかったのよ。信じられるかな。ふふふふっ」。

 豊かな口承文芸の伝統を誇るセルビアには、男唄、女唄、そして「境の唄」がある。男唄は民族の歴史を詠う叙事詩、女唄は抒情詩、境の唄はそのあいだにあって、個人の運命を詠うバラードだ。内戦の時代に、著者の心の支えとなったのは、難民となったひとびとの「語り」の世界の深さ、その深さからこぼれる光であったという。困難なとき、「魂はほんの少しの光に照らされることだけを求めている」。

 繰り返される歴史のなかの、繰り返しのない個人の人生。それはまさにバラードである。そして、もっとも個人的な記憶を語るとき、その触媒として料理ほどふさわしいものはない。セルビアでは、料理が母から娘、姑から嫁へと、国境や言葉を越えて伝えられ、歴史という鍋のなかで煮込まれてきた。そう、唇から耳へと、歌が伝わるようにして。

 巻末には、本書に登場する料理のレシピが掲載されている。肉詰めパプリカ(プーニェナ・パプリカ・サ・メーソム)、豆スープ(パスリ)、肉のサルマ(サルマ・サ・メーソム)、マーブル戦争ケーキ(ムラモルニー・ラトニー・コラッチ)……。食べ物とは思い出であり、料理とは甦りのことである。戦火のレシピが、遠くの生を近くへと引き寄せる。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

*三省堂書店×WEBRONZA 「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

関連記事

レコメンドシステムによる自動選択

筆者

西 浩孝

西 浩孝(にし・ひろたか) 編集者

1982年、富山県生まれ。現在、長崎市在住。2016年9月まで大月書店編集部に勤務。これまで編集した本に、藤井貞和『言葉と戦争』、宮地尚子『傷を愛せるか』、アモス・オズ『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』、代島治彦『ミニシアター巡礼』、鎌田遵『ドキュメント アメリカ先住民―あらたな歴史をきざむ民―』、NHK取材班『あれからの日々を数えて―東日本大震災・一年の記録―』、青木深『めぐりあうものたちの群像―戦後日本の米軍基地と音楽1945-1958―』など。