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セクハラの被害者が声をあげはじめた

上野千鶴子 社会学者

伊藤詩織さん拡大日本の「#MeToo運動」のきっかけをつくった伊藤詩織さん

実名告発のインパクト

 ハリウッドでもカンヌでも#MeTooの動きは活発なのに、日本ではなぜ起きないのか、と嘆くひとたちがいる。日本でも#MeTooの動きは確実に起きている。しかも後戻りのきかない地殻変動のように。セクハラを容認しない方向へと世論は変化した。

 一連の波を起こしたきっかけをつくったのは、なんと言っても伊藤詩織さんが『Black Box』(文藝春秋、2017)で顔と実名をさらしてセクハラを告発したことである。被害者が沈黙し名乗りをあげないことで、あるいは匿名で告発しても、「被害者の特定できない犯罪」として、加害者は免責されてきた。性暴力は被害者をスティグマ化する効果がある。実名をさらしたとたん、被害者はありとあらゆるバッシングを受ける。それに耐えて矢面に立つ者がいるからこそ、#MeTooとあとに続く者たちが登場した。

 「慰安婦」が#MeTooの先駆けだった、と回顧的に言うこともできるだろう。そのとおり、1991年に金学順(キム・ハクスン)さんが実名を出してカミングアウトしてから、「慰安婦」をめぐる政治状況は一変した。金さん以前から、「慰安婦」の存在と被害は広く知られていた。同情を寄せる者たちもいた。だが金さんが実名をさらしたことで、わたしはここにいる、わたしが当事者だ、謝罪と賠償を要求するという告発の「主体」が登場した。だからこそ、「実はわたしも……」と#MeTooのあとに続く者たちがあらわれたのだ。

 実名告発のインパクトはどれだけ強調しても強調しすぎることはない。「保育園落ちた日本死ね!!!」のブログを国会で山尾志桜里議員がとりあげたとき、受けて立った安倍首相が「匿名のブログでもあり、真偽のたしかめようがない」とつっぱねたことを覚えているだろうか? ただちに複数のママやパパたちが、「保育園落ちたの私だ」というプラカードを持って、国会前に立った。

 当事者のいないところで、だれかが利害を代弁することは難しい。ましてや性暴力はこれまで「親告罪」だったから、他のだれかが代理告発することはできない。

 だからと言って被害者に名乗りをあげよ、と要求することが不適切なのは言うまでもない。名乗りをあげることで支払わなければならないコストが大きすぎるからだ。それを過去の痛ましい例から、すでに多くの被害者は学習している。被害者の側にスキがあった、誘惑した、合意だった、もともとふしだらだったと過去の性経験やプライバシーまであばかれる。そんなバッシングに耐えられる女性は多くない。

二次加害、三次加害

 そこに追い風になったのが福田淳一財務次官(当時)のセクハラ問題だった。録音という物証があったにもかかわらず、「自分の声かよくわからない」「相手がわからない」「お店の女性相手のことば遊びだった」……と「セクハラに当たらない」と否認しつづけた。今でもネット上で視聴できる発言によれば、「胸さわっていい?」「手縛っていい? 手縛られていい?」と、引用するのもはばかられるような、取材相手に公的な場で口にすることばとはとうてい思えない。

 追い打ちをかけるように、女性記者の所属するメディアと、対する財務省トップの、リスク管理のミスハンドリングがつづいた。

 まず、女性記者の訴えを聞いたテレビ朝日の上司が、事件をにぎりつぶそうとした。「あなたのためにならない」というのは、もっとも悪質な組織防衛であり、かつ最低のリスク管理と言える。訴えの持って行き場を失った記者は、情報を週刊誌にリークした。引っ込みのつかなくなった会社側は、財務省側に正式に抗議するとして緊急記者会見をしたが、そのなかで、他メディアへ情報をリークした記者の行為を報道人として不適切と認めた。

 他社への情報提供は、上司のにぎりつぶしがなければ起こらなかったことであり、かつテレビ朝日がメディアとしてほんらいの機能を果たしていれば自社メディアで扱えた事件である。また取材相手の許可を得ず録音したことが取材ルールに反するという言い分に対しても、福田氏の発言内容は取材を逸脱している。セクハラ事案に関して被害者が身を守るために、録音は広く推奨された手段である。取材ルール無視と人権侵害は、どちらがより深刻だろうか。にもかかわらず、記者の落ち度としたことに、産経新聞のような保守系メディアが飛びついた。

 事件はセクハラという人権侵害から、情報源秘匿の記者倫理を守らなかった不適切な取材活動へと、方向をねじまげられるかとおそれたが、そうはならなかった。瞬間、わたしの脳裏に浮かんだのは、1970年代に起きた沖縄密約問題をめぐる毎日新聞、西山記者の事件である。米軍基地の原状回復補償費をめぐる重大な密約の是非が、情報源から「情を通じて」入手したというスキャンダルにすりかえられて、西山記者は有罪判決を受けた。

 それに続いて、財務省側では二次、三次加害が次々に起きた。まず加害者の福田氏が事実を否認した。セクハラの多くは、告発された事実を加害者が否認することそのものが二次加害となる。次いで財務大臣の麻生氏が調査らしい調査をせず、「福田の人権はなしってわけですか」と加害者擁護と組織防衛に走った。わけても被害者に名乗りをあげるように呼びかけるなど、セクハラについての無知をさらけだした。

 セクハラ事件は告発者の匿名維持や、公判においても衝立の後ろに隠れての証言など、対応にさまざまな工夫を凝らしてきたが、それというのも被害者を守るためである。交通事故の被害者に名乗りをあげるように呼びかけるのとはわけが違う。この呼びかけは被害者に「踏み絵効果」をもたらし、二次加害を誘発する。セクハラについていくらかでも知っていれば、決してやってはならないことだ。これもセクハラ案件をこれまで扱ってきた女性弁護士や支援団体などが、その非を説いて押し戻した。麻生大臣が名乗りをあげるように呼びかけた先は、弁護士事務所だった。さすがに財務省本体ではなく、外部団体に委託したのは知恵を絞ったのだろうが、それが財務省の顧問弁護士だったのは浅知恵と言うべきだろう。顧問弁護士とはクライアントの利益のために動くものだ。中立とは言えない。

 さらにリスク管理の失策は続いた。セクハラ疑惑を認めないままの福田次官の依願退職を認めたことだ。「自己都合退職」となれば、何のペナルティもなく、退職金も規程どおり満額支払われる。経歴に傷もつかない。世論に押されて、退職金の支払いを延期し、あとづけで減給2割、6カ月間という「懲罰」を科した。大臣によれば理由は「役所に迷惑を掛けたとか、品位を傷つけたとか(そういう理由で)処分した」というはっきりしないもの。その後、遅ればせに省内で調査委員会が立ち上がり、本人否認のまま「セクハラ」を認定した。幕引きを急いだ様子がありありだが、もしきちんと調査委員会を設立するなら、省内ではなく、中立の第三者機関にしなければならないのは常識の内である。

 その過程でも麻生財務大臣の失言は続いた。「(取材の)次官担当を男性記者に替えればいい」というのは、女性を職場から排除するものだ。代わりに、「次官を女にすればよい」とすればどうだろう。男性記者がふつうにおこなっている1対1の取材を、女性記者がやっていけない理由は何もない。また、麻生氏は「(福田が)はめられてうったえられている」とも発言した。ハニトラこと「ハニートラップ」という、あさましい英語の隠語が広まったのも、そのせいである。これまでのセクハラ告発を見ても、告発者が支払わなければならないさまざまな犠牲を考えれば、「はめて」陥れることにともなうコストは高くつきすぎる。福田氏を陥れても、記者に得るものはない。

 さらに麻生氏はセクハラに対する無知をさらけだした。「セクハラ罪という罪はない、殺人罪とは違う」と発言した。包括的な性暴力禁止法のない日本では、「強制性交等罪」を除けば「セクハラ罪」という罪はないが、これまでの判例の積み重ねで、セクハラはあきらかに「不法行為」であることが確立している。また「セクハラは親告罪」というが、2017年6月の刑法改正で、性犯罪は親告罪ではなくなった。側近に耳打ちしてくれる知恵者もいないのか、麻生氏のたびかさなる失態は無様でもある。

女性ジャーナリストが当事者になった

 その過程で女性のあいだに、#WithYou、#WeTooと追い風が吹いた。4・21新聞労連全国女性集会、4・23「セクハラ被害者バッシングを許さない4・23緊急院内集会」、4・28#私は黙らない0428新宿アルタ前集会、5・7財務省前抗議行動と次々に抗議集会が開かれた。5月1日には「メディアで働く女性ネットワーク」が発足した。4・23集会で、ある女性ジャーナリストが、「客観報道」のために自分たちは「当事者になることを避けてきた」という発言をしたが、「メディアで働く女性ネットワーク」の林美子さんによれば、彼女たち自身が「当事者」だったのだ。4・21新聞労連女性集会では、「セクハラは日常的で感覚がまひしていた」「記者として認められなければというプレッシャーがある。セクハラも業務の一環とすら思いこんでいた」という発言が相次いだ。その場に立ち会った小林基秀中央執行委員長は、「女性記者の生の声に、改めてショックを受けた。マスコミも男性中心の組織文化を変えるときだ」とコメントした。

 伊藤さんが実名告発したのも、自分はジャーナリストだという職業意識からである。真実を伝えることが仕事の自分の身に起きたことを、自分が伝えなくていったいだれがそうするのか?という思いが、彼女を踏み切らせた。ジャーナリズムの場でのセクハラが問題になったのも、メディアの女性労働者が増えたためである。これまで職場で受忍してきた男性優位の組織文化を、女性が容認しなくなった。新聞労連の集会では、これまで女性が「我慢し黙認してきたことが最悪の結果を生んだ」という、反省の声が聞かれた。

 変化を感じるのは、#MeTooの声ばかりではない。年長の女性たちの反応も変わった。従来、告発の声があがるたびに、「それくらい、いなすのがオトナの女」「騒ぎ立てるなんてみっともない」と、年かさの女がいさめたものだが、そして今でもそういう声はないわけではないが、新聞投書欄などの公共的な空間にはあらわれなくなった。作家の中島京子さんは、伊藤詩織さんとの対談〔中島京子連載対談「扉を開ければ」『本の窓』小学館、2018年1月号〕のなかでこう発言している。

 「もし、私たちの世代がちゃんと声を上げていれば、社会も少しは変わっていたかもしれない。詩織さんがひとりで頑張らなければいけないような状況にしてしまい、本当に申し訳ない」

被害者を孤立させない

 #MeTooに#WithYouの動きが続いたのには理由がある。セクハラの被害者を孤立させないことが大事だからだ。#WithYouは、被害者に対して「あなたはひとりではない、わたしたちがついている」とメッセージを送るためだった。

 セクハラの告発が起きると、加害者はまず被害者を周囲から分断して孤立させようとする。悪い評判を立て、被害者のプライバシーを暴き、家族や親族に圧力を加える。多くの被害者が、セクハラの告発を断念したり、取り下げたりするのはそのためである。セクハラが親告罪だったあいだは、裁判の期間中、原告の立場を維持することが課題だった。大阪府知事だった横山ノック氏のセクハラ事件のとき、支援者たちがもっとも神経をすりへらしたのは、被害者を支えて訴訟を維持することだった。そのあいだにも、訴訟の取り下げや和解への圧力は間断なしに働いたことだろう。セクハラ訴訟の和解の報を聞くたびにわたしが思うのは、その背後にどれほどの圧力と締め付けがあっただろうか、ということである。

 最近ではTOKIOの山口達也さんに対する女子高生のセクハラ告発の取り下げが報じられた。女子高生は、夜中に呼び出されて男の家に行ったことを責められたが、相手は46歳の大人の男、対するに女子高生は未成年にすぎない。深夜に呼び出した大人の男と、呼び出しに応じた少女とでは、非常識なのは、呼び出した大人の男のほうに決まっている。沖縄米兵による強姦事件でも、たびたび告訴の取り下げが報じられる。そのたびに、被害者の孤立と無力化、水面下で働く圧力や脅かしを思わないわけにいかない。性暴力に関する訴訟は、維持するのが困難なばかりか、たとえ勝訴しても、得るものの少なさに比べてコストが大きすぎるのだ。

セクハラ告発の波及

 セクハラを容認しない動きは、各地で続いた。ここしばらくのあいだに、自治体トップのセクハラ関連の辞職が相次いだことである。東京都狛江(こまえ)市長のセクハラ辞職、岩手県岩泉町長のセクハラ辞職、新潟県知事の買春辞職等々。狛江市長はセクハラを否認したが辞職に追いこまれ、群馬県みなかみ町長はセクハラで町議会の辞職勧告を受けたが、まだ居座っているという。セクハラは政治家の政治生命を絶つほどの、重大な犯罪となった。

 またセクハラの告発は他の分野へも波及した。もともと#MeToo運動はハリウッドの大物プロデューサー、ワインスタイン氏を女優たちが告発したことから始まったものだが、学校や職場だけでなく、芸能界や芸術界にも拡がった。アート界では荒木経惟(のぶよし)氏のモデルを務めたKaoRiさんの告発があった。アーチストとそのモデルとの関係は以前から問題含みのものだが、これまでは秘匿されていた。#NotSurprized(私たちは驚かない)がその事情を物語っている。「あってもふしぎはない、ただ誰も言わなかっただけ」なのだ。スポーツ界でも、コーチや監督と選手との関係が問題になった。軍隊という聖域でもセクハラがあることが女性自衛官の告発によってわかった。宗教教団のなかでも、治外法権的に何がおこなわれているかわからない。

 ジェンダーの非対称性がある限り、ありとあらゆる領域でセクハラはおこなわれていると考えられるが、それが明るみに出ないとすれば、ただ被害者が沈黙しているからにほかならない。 (つづく)


筆者

上野千鶴子

上野千鶴子(うえの・ちづこ) 社会学者

1948年富山県生まれ。社会学者。東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。1994年、『近代家族の成立と終焉』でサントリー学芸賞、2011年朝日賞受賞。著書に、『ナショナリズムとジェンダー』『生き延びるための思想』『おひとりさまの老後』『身の下相談にお答えします』『男おひとりさま道』『おひとりさまの最期』など多数。近刊に『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』(朝日文庫)。