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[書評]『『君たちはどう生きるか』に異論あり!』

村瀬学 著

今野哲男 編集者・ライター

思い込みに楯を突く、静かなる覚悟――生存権(存在給付)のために

 貧困やいじめといった今日に通じるテーマを扱い、歴史的な名著として評価が高い吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』は、日中戦争の前に刊行された戦前の本だ(1937年、新潮社)。

 だが、1931年に治安維持法違反で逮捕された経歴を持ち、戦後は岩波書店『世界』の創刊編集長を務めた作者の、進歩的文化人としての戦後的な名声もあって、敗戦をまたぎ、戦後も何度か出版各社で新版の刊行が続いた(新潮社〈改訂 日本少国民文庫〉版/1948年10月20日、ポプラ社〈吉野源三郎全集ジュニア版〉/1967年など)。1982年には岩波書店が、政治学者・丸山真男の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」という解説を付け、文庫として刊行している。

 これを漫画の形で描かれる主人公コペル君にまつわる旧制中学でのエピソード、加えてコペル君のいくつかの書きつけと、「おじさんのノート」と呼ばれる、編集者をしているおじさんが書いたコペル君に呼びかけるテキストで構成したのが、『漫画 君たちはどう生きるか』だ(漫画・羽賀翔一、マガジンハウス、2017年8月)。ちなみにこの「ノート」で語られる内容は、作者・吉野の戦前の本音だったと思われる。

 記憶に新しいというより、まだ現在進行形なのだが、同書は、元の本にある今となっては<戦後民主主義>的なある種の権威性と、それを漫画で読むというポストモダン風の軽いイメージを纏った枠組みとの、おそらく意図的なミスマッチが功を奏し、瞬く間に話題をさらうことになった。「オリコン」、「Amazon」、「トーハン」、「日販」、「大阪屋栗田」などの各販売会社2018年上半期の売り上げランキングではいずれも1位。今年(2018年)の上半期一番のベストセラーで、刊行から数えて9カ月で200万部に達したという。右肩下がりの下降カーブが止まらない出版不況のなかにあって、各方面で好意的に迎えられている明るい話題の一つだと言っていい。

 本書は、そんな流れに逆らうように刊行された、業界垂涎の話題の本に「異論あり!」と敢えて楯突いた本である。

『『君たちはどう生きるか』に異論あり! ――「人間分子論」について議論しましょう』(村瀬学 著 言視舎)定価:本体1300円+税『『君たちはどう生きるか』に異論あり!――「人間分子論」について議論しましょう』(村瀬学 著 言視舎) 定価:本体1300円+税
 だが、誤解はしないでほしい。元の本が<戦後民主主義>と切っても切れない関係にある上に、<戦後民主主義>の要諦の一つは、近頃とみに軽視されている「少数意見の尊重」にこそある(あった)のだから。漫画がどうの、売り上げはどうのと大方の話題に押し流される前に、その内容と思想性について、しかるべき検証の機会はあって当然だし、あってこそ健全だと言えるのだろう。それが「無い」ことについては、著者が冒頭で「あまりにも異論が出されていないのが不思議です」と訝しんでいるとおりだ。

 著者の村瀬学は、児童文化研究者で心理学者。心身障害児通所施設の職員を経て、同志社女子大の教授になった人で、障害と障害児についての著書が多くあり、書き手としての視線は、社会構造の分析と批判にも及んでいる。本書では、漫画で描かれるいくつかのエピソードと、それについての「おじさん(≒作者・吉野)のノート」の見解が、順を追って仔細に批判・検討されている。

 だが、その全部を紹介する紙幅はないので、副題にある「人間分子観」をめぐって語られる冒頭の「一 へんな経験――上から見る目の出現、コペル君の人間分子観」にある作者・吉野の「近代科学」的な価値観についての批判と、内なる「障害者差別」につながる危険を指摘した「四 貧しき友――労働する人の話へのすり変え」を紹介する。本書が、「近代科学」批判と、そこから派生する「障害者」をはじめとする「弱者」たちへの<戦後民主主義>的な見方を批判する、近頃よく耳にするマウンティングなどとはおよそ無縁な、反マッチョな視線で貫かれているからである(村瀬はそれを、「地上の感性」「日常の見方」「繊細の精神」「目、口、尻を生きる大地循環観」「横から見る目」「等身大」「存在給付」など、さまざまに変奏して語っている)。

 まずは「人間分子観」だ。これは冒頭のエピソードで銀座のデパートの屋上でコペル君が街の光景を見た後に、作者・吉野がコペル君に「人間って、おじさん、ほんとに分子だね。僕、今日、ほんとうにそう思っちゃった」と言わせたセリフに出てくる考え方で、わたしは元の本を読んだときから、そのわざとらしさと、隠れた説教臭に強い異和感を覚えた(コペル君の名も、実は近代科学に寄与したコペルニクスから来ている)。著者・村瀬は、たぶんそれとよく似た異和感を、「左翼分子」「革命分子」「反革命分子」「異端分子」などという言葉を立て続けに並べて、巧みに言語化している。

 それを乱暴に要約すると、「人間」を「分子」として「上から見る」発想は、「おじさん」の言うような「素晴らしい発見」ではなく、すでに歴史的に一度破産している全体主義、左翼全体主義が奉じた、「近代科学」への妄信にほかならないのではないかというのである。わたしはそれを読んだとき、虚を突かれたように納得し、そう言えば「昔は共産党細胞などという言葉もあった」と思った。そして、その手の近代科学一辺倒の「科学的視線」が、ナチズムの優生思想やスターリニズムの恐怖につながったのではなかったかと。

 村瀬は言う。戦前からの筋金入りの「民主主義者」だった吉野源三郎とはいえ、そのような時代の制約から完全にフリーではなかったのではないかと。これは、単純なようでいて、言い当てるのが難しいことだ。しかし、歴史は、伝説や思い込みによって間違いを犯した事例に満ち満ちているのだから、このような批判の大切さは言うまでもないと思う。ベストセラーはよい、伝説もときにはよいが、だからこそそれに見合った批判が必要だという考えが、この国にはもとから欠けている。もって銘すべし、と考える。

 次は、弱者、とくに障害者について。もう「おじさんのノート」は引用しないが、著者・村瀬は、「四 貧しき友――労働する人」の話へのすり変え」の「おじさんのノート」にある言葉についてこう評している。

 おじさんは、いかにもこの「大勢いる貧しい人々」の味方のようなことをいっているのですが、おじさんの頭の中にある「貧しい人々」のイメージは、ずいぶんと偏っています。実際には家柄や職業の違いという理由で貧しくなっている人と、学歴や知的な好奇心に向かないことで貧しい暮らしを強いられる人たちがいるわけですが、おじさんは、そのなかでも「馬鹿な奴」や「下等な人間」は「軽蔑」しているのです。知的に障害のある人たちや、寝たきりの重度の障害者などは、もちろん眼中には入っておりません。なぜおじさんはそのような「区別」を立てているのか、その「区別」の仕方を読者は見のがしてはいけないのです。

 いかがだろう。このパッセージが、おじさんのどんなコメントに対応して書かれているのか、できれば本書をあたって読んでみてほしい。

 ちなみに作者は、吉野が少年少女向けに書いたリンカーンの伝記を薦める「九 水仙の芽とガンダーラの仏像――目・口・尻をもつ存在」の「附論1 吉野源三郎『リンカーン』について」の中でこう言っている(この一節からもわかる通り、著者は批判のための批判をしているわけではない)。

 (フランス革命は)貧困層の悲惨な状態を打破するために「生存権」という権利を認めるように民衆が蜂起したのです。私はその考えをここで「存在給付」と言い換えて、それが今の時代に求められていることを訴えてきました。

 先日、ある雑誌で、少子化対策にからめ「LGBTには生産性がない」と言った自民の衆議院議員がいた。「常識普通であることを見失っていく社会は秩序がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません」と書いていたらしい。これではもう優生思想と違わない。「普通」と「それ以外」を「区別」して、手前勝手な「秩序」を守ろうとする「差別」の発想というしかないだろう。世にはびこるこういう輩に対して、どう戦うか。本書には、そのヒントがこめられていると思う。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。