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[書評]『先史学者プラトン』

メアリ―・セットガスト 著 山本貴光・吉川浩満 訳

松本裕喜 編集者

何とも素敵な本づくり

 近くの書店で、『先史学者プラトン』の書名と洗練された紙面に惹かれて手にとった本である。石器や土器、復元図や地図などのおびただしい図版(ほとんどがイラスト)が掲載されているが、2色刷かと惑うほど(実際に墨と土色の2色刷なのかもしれないが)鮮明に印刷された魅力的な仕立ての本になっている。

『先史学者プラトン 紀元前1万年―五千年の神話と考古学』(メアリ―・セットガスト 著 山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社)定価:本体2800円+税『先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学』(メアリ―・セットガスト 著 山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社) 定価:本体2800円+税
 プラトンの著作『ティマイオス』と『クリティアス』に出てくる大西洋のアトランティス島と前8500年の地中海世界との戦争を糸口に、前1万年~前5000年の「続旧石器時代」(「中石器時代」とも)と「新石器時代」の文化を描こうとしたもので、「先史学者プラトン」の言葉は著者の造語だろう。

 現在の知見ではアトランティス大陸が存在した形跡はない。著者はアトランティスを前1万7000/1万5000年から前9000年の間にフランスとスペインで栄えたマドレーヌ文化に照応させているようだ。

 マドレーヌ芸術の華はラスコーの洞窟壁画である。この本はその壁画に描かれた雄牛や馬の絵をイラストでじつに魅力的に再現している。考古学者たちはこの洞窟をなんらかの宗教上の聖地とみている。

 続旧石器時代には、北アフリカでは骨製の銛(もり)を出土するイベロマウル文化があり、エジプトのナイル川流域では石臼とフリント(打製石器の素材)が大量に出土している。またパレスティナでは前1万年ごろ集落が急に拡大した。ナトゥーフ文化である。現在のシリアで栄えたこのナトゥーフ文化は1000年後には姿を消した。

 前8000年紀後半になると、突如、新石器文化が出現する。狩猟採集の時代から農耕による定住生活への移行は人類史上の決定的な転換点であったが、新石器革命についてはわからないことが多いらしい。

 プラトンの描くエジプトの老神官は、アトランティスとの戦争の後、地震と「ほとんどあらゆるものを破壊した洪水」が起こったという(『ティマイオス』)。そして地震と洪水でギリシアは荒廃し、この伝承は伝えられなかった(『クリティアス』)。しかし、前8000年紀中ごろに大洪水の起こった痕跡はないそうだ。

 著者によれば、古典学者のあいだでは、神話の記述の多くは歴史的にみて正しいとみなされている。ギリシア神話の神ポセイドンとアテナの対立も、移住してきたインド=ヨーロッパ語族の人々の信仰とギリシアにもともと住んでいた人々の信仰の対立と考えられるという。著者は神話を次のように解釈する。

 「古代人にしてみれば、現代人が神話と呼んでいるものの一部は、ほかならぬ歴史だった。つまり、それは神々の歴史であると同時に人間の歴史であり、観念の上での出来事の歴史であると同時に具体的な出来事の歴史でもあったのだ」

 これはプラトンの著作に向き合う著者の姿勢とも通じるのではないかと思う。

 新石器革命の次の時代(前7500/7300年~)を担ったのは先土器新石器文化Bのパレスティナ、シリアおよびアナトリア(現在のトルコ)、イランのザグロス山脈周辺の村落であった。この地域では住居や神殿のプラン(平面図)が復元され、さまざまな種類の尖頭器、鏃(やじり)や槍、彩色土器やブレスレット、女性像が出土している。

 こうした新石器時代のさまざまな伝統が集まったのがアナトリアのチャタル・ヒュユクの遺跡(前6200~前5300年)である。最大時には5000~7000人が暮らしていたと推定されるこの都市的集落からは、壁画と浮彫の建造物、織物、黒曜石の鏡と宝飾品、丁寧な埋葬墓が発掘されている。信仰生活の中心として繁栄したこの遺跡は大火災にあった後、放棄されたようだ。

 ネット情報によるとチャタル・ヒュユク発掘の中心的考古学者ジェイムズ・メラアート (2012年死去)は1964年に密売業者を手助けしたとしてトルコ政府から遺跡の発掘を禁止され、今年3月にはチャタル・ヒュユクの壁画を偽造したとの疑いが出ているそうだ。この本に掲載されている「狩猟の祠堂」と名づけられた部屋などのすばらしい復元図のいくつかも、あるいは検証が必要なのかもしれない。

 新石器革命第2期(前6000年紀後半~)ではペルシア(現在のイラン)の伝説的な預言者ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラとも)が取り上げられる。古イランとインドのヴェーダの宗教では、火は宇宙の秩序、正しい秩序を意味した。ゾロアスター教(拝火教とも)の信奉者にとって農耕によって定住することは宗教上の使命だった。

 ザラスシュトラは聖職の位階を表す一般用語で、ザラスシュトラは何人もいたとの説もある。ザラスシュトラはマギ(古代メディアやペルシアで宗教儀礼を司っていた氏族)の一人であったのか、マギの対立者であったのか、見方が分かれるらしい。マギは学問の師とも「宇宙科学」を伝授する者、地上の元素を研究する者、また魔術師としても描かれている。このザラスシュトラおよびマギの宗教思想は2~3世紀のエジプトのヘルメス派を経て「錬金術」に引き継がれたと著者はみる。

 先史時代の歴史はさながらSFの世界である。この本の描くストーリーでは、大洪水で新石器時代が始まり、大火災で次の時代へ移行した。アトランティスも大洪水も前6000年紀後半のザラスシュトラの活動もそのまま信じられるわけではないが、美しいイラストとともに、ともかく読ませる本だ。

 編集者時代、考古学関係の著者は難敵だった。とにかく原稿が来ない。だいたいが発掘や調査で家にいない。その発掘や調査もほとんどが国や県、市の委託事業だから、発掘が終わると報告書を提出しなければならない。考古学者にはなかなか原稿を書く時間がないのだ。それに数千年前、ことによると数万年前のことを扱っているので、来週や来月といった日程がぴんと来ないような節もある。催促の電話を受ける奥さんの(鍛え抜かれた)凛とした応対には感心することが多かったが……。

 それはともかく、専門分化した学問の世界で、この著者のような自由な立場でものが書ける(「木ではなく森の物語を書く」)ライターがいるのが欧米の出版界の厚みである。原書は1990年発行の本だが、われわれ日本の読者には(私にはというべきかもしれない)ほとんど知らないことばかりが書かれていて面白かった。図版のレイアウト、注の扱い(出典の明記)、索引(図版の表示もある)とも、よく工夫されているのに感心した。書店でぜひ手に取ってみてほしい本である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。