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「1968」の敗北を経て見えてきたもの

学習塾、市民との読書会、ヘーゲルの翻訳……。在野の哲学者が語る闘争後の日々

長谷川宏

長谷川宏さん長谷川宏さん

 「1968年 全共闘とは何だったのか?」に続いて、ヘーゲルの翻訳やエッセイで知られる哲学者の長谷川宏さん(78)のお話を。今回は闘争の1968年が幕を閉じ、東大安田講堂の攻防戦と陥落ではじまった1969年から語っていただいた。(聞き手 朝日新聞論説委員・藤生京子)

「沖縄反戦デー」のデモで約30人の逮捕者

1969年の1月18、19日のいわゆる安田講堂攻防戦と、その陥落後、東大の多くの学部では次々とストライキ決議が否決され、授業が再開されていく。だが文学部は、同年3月に再度、ストが決議される。バリケードもそのまま残った。

――普通に考えれば、もうあきらめよう、という機運に傾いてもおかしくなかったのでは。

 そういう気分はあまりありませんでした。全共闘は全国的に結成の動きが広がっていったし、大学当局の強権的な支配に抵抗しなければ、との思いは多くの仲間たちに共有されていた。文学部は、法学部や工学部のように社会の中枢を約束された集団と違い、もうちょっと自由に、好き勝手にやるという感じ。主流でないぶん、左翼の風潮は強くて。

 4月28日には「沖縄反戦デー」にあわせて、全学で数千人を集めるデモがあった。山手線が閉鎖され機動隊の挟み撃ちにあうのですが、文学部は院生を中心に30人くらい逮捕者が出た。学内全体としてみれば残務整理をこなすような日々の中で、盛り上がりもあったんですね。

大所高所からトリビアまで、広がった議論

――粘りをみせた。 

東大の安田講堂攻防戦=1969年1月18日 東大の安田講堂攻防戦=1969年1月18日
69年の途中あたりからかな、闘争委員会での議論そのものが面白くなって。前にも言った通り、内外のいろんな人たちが集まるようになってきた。

 日米安保やベトナム反戦、沖縄といった、大状況の政治に向き合うことが変革、ひいては革命に貢献するのか。それとも学内の問題という小状況に取り組むほうが、充実した闘いなのか。文学部の院生は、後者が多かったですけどね。本質的で、面白い議論でした。

 必ずしも大所高所の話ばかりでもなかったんです。たとえば研究室のバリケードの中で麻雀をしていいのかどうか、部屋の整理整頓はどうするか、といったトリビアな話題も、きちんと議論しようとすると、面白い。あるいは、研究室の本、どうするんだと。売っちゃおうか、という意見まで出てくる。それにかかわって、研究室の成り立ちは? 目的は? そもそも図書とは?とかへと議論が広がる。

 一方で、議論は面白いけれども、それで本当に実効性のある闘いになるの?という問いも出される。

 話に広がりが出てくると、それまであまり話題に参加できなかった学生たちも、口を開きやすくなったようです。話題にも話しかたにも変化が出てきて、興味がふくらんでくる。

 そういう、いきいきとした議論を引っ張っていく人が、何人も出てきた。話の展開を聞いていて、本当に、おーっと驚くようなところがあった。 

「これ以上無理」とバリケードを解除

――そうした果実をもたらしながら、最後まで残っていた文学部でも10月には授業が再開された。12月にはバリケードを自分たちの手で解除したのですね。

 教授会との折衝で押したり引いたりしても、展望がみえなくなっていきました。警察当局からすれば、東大の学生、院生なんて、しょせん、やわな集団ですから、早朝の授業強行再開にも本富士署から機動隊員がせいぜい10人しかこない。こっちは30人。ほかの学部ではとっくに平常が戻っていて、学内の雰囲気が、政治の介入も仕方ないというふうになっていった。

 バリケードをやめたのは、これ以上無理だと見極めたからです。心残りではあったけれども、ストライキを続ける意味が見出せなかった。自己否定から、新たに構築すべきものが何か、イメージををつくり出すことができなかったんだろうと思う。

 あとは、各自が自分なりに進む道を見つけるしかないということになった。研究室に帰る人は帰る。帰らない人はほかに道を見つける。そうやって、それぞれの態度を確認して。

敗北ではあったが、挫折ではない

――長谷川さんが運動に飛び込んでから、ちょうど1年。岐路に立たされた。

 まあ、それほどの岐路でもないですよね。大学にいたんだし、東大ですから特権的だった。岐路というなら、むしろ岐路に立つように、自分で仕向けたところがある。

 僕は、大学とは違う道で生きる面白さを予感していて、アカデミズムを去ることにあまり迷いはなかったかな。一体何のために自分は研究を続けるのか。もやもやと考え、すっきりしないものが残っていたので、「帰らない」という選択を自分の中で強く推し進めました。

――敗北、あるいは挫折なのか。ご自身はどうでしたか。

 自分たちが大学当局に突きつけた要求項目が通らなかったという意味では、間違いなく、敗北です。闘争後に「文学部闘争――敗北の総括」という文章を書きました。冒頭に「敗北の十二月は……闘争をたたかった者のこころのおくふかくにかくされた暗渠である。暗渠にはつよいひかりがあてられねばならない」という一節がある。気負った文章で、いま読むと恥ずかしいんですけど。

 だから、敗北ではあるけど、挫折というのは、ないな。様々な体験を通して発見があり、獲得したものが、はるかに大きかったですから。 

学習塾をはじめて変わったこと……

1970年、妻と二人で都内から移り住んだ埼玉県所沢市の郊外に、赤門塾という小さな小中学生向けの学習塾を開く。新たな出発だった。

1980 年。合宿や演劇祭など、赤門塾のユニークな試みをつづった本「きのふ、けふ、あす」が朝日新聞読書面に紹介された1980 年。合宿や演劇祭など、赤門塾のユニークな試みをつづった本「きのふ、けふ、あす」が朝日新聞読書面に紹介された
 大学は離れましたが、研究は続けたいと思っていました。当初は、塾は生活費をかせぐためで、研究が主、子供たちに教えることは従と、割り切っていた。完全に別ものであって、二つが交錯することはないだろうと予想していた。

 それが、少しずつ、変わっていくんです。

 OGやOBの中に卒業後も勉強や遊びに来る子たちがいて、彼らを中心に、塾の小中学生を巻き込んでハイキングに出かけたり、読書会をしたり、1週間から10日ほどの合宿をしたりするようになりました。合宿は廃校になった小学校などを借りる。みんなで日程を考え、役割分担を決め、食材の調達から調理、配膳、それにディスコや肝試し大会などのイベントも企画する。夜は星空を仰ぎ見ながら、ドラム缶風呂です。これが子供たちには新鮮だったらしく、好評でね。

 それから、もう1つ大きかったのは演劇祭。出演者の顔ぶれに合わせて脚本を選び、配役をきめ、稽古をし、発表の日を迎えるんです。

 そういう活動を通して、子供たちとの関係も深まり、日々の授業も変わっていきました。僕も、そのために費やす時間が長くなるんだけれど、研究の時間が削られるのをネガティブに感じることはなくなった。むしろ、すべてが実に「面白い」と思えるようになった。

 ――たとえば、どんなことですか。

 大学にいたときは、どうしても観念的に考えていた言葉が、多少とも現実と結びつくようになった。個人の主体性とか、平等とか公正とか、連帯といった、もろもろの言葉を、日常の具体的な出来事とかかわらせて考えられるようになったのです。

 たとえば合宿で、喫煙する中学生がいたとするでしょう。行為の是非をどう考えるか、その是非を当人にどう分からせるか、どんな罰を課すか。そんな一つひとつのことを、子供たち、大人たちが当人も交えて議論していったのです。

 あるいは塾の勉強の最後に読書の時間を取って、600ページもある、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を10カ月かけて読み進めたことがあった。日が経つうちに、主人公の心の動きを生徒たちが共有し、順繰りでまわってくる朗読にも力が入っていく。みんなでいい朗読のリズムを作ろうとする。人間の共同性の発芽を、そんなところにも感じました。僕自身が子供たちにお礼を言いたいくらい。

子育ては不思議で、大きなよろこび

 ――イクメンの先駆けでもありますよね。

 はは、そうそう。子育ての経験は大きかったですね。

 僕は結婚しても子供はいらない、そのほうが研究に打ち込める、くらいの気持ちでいたのですが、保育士で子供と日々過ごしていた妻が、子供と過ごす時間は楽しい、ぜひうちでも子供がほしいと言う。で、結局、男女2人ずつ、4人の子供を育てました。

 僕は塾稼業も哲学研究も家での仕事でしたから、子供の保育園の送り迎えや病気のときの対応などは、僕の分担でした。当時は珍しがられたけど、ほら、戦後民主主義の申し子で、男女平等はたたきこまれていたでしょ。子育てに身を入れることに違和感はなかった。何より、子供がかわいくて。成長の過程につきあうことで、「生命体」に向き合うという言葉がしっくりきた。一つひとつ、不思議で、大きなよろこびでした。

子育てを通じて地域とのつながりが増え、つきあいを深めていく中で、近所の親しい人たちと一緒に読書会を始めた。自宅で開く会は3つ、別途、ドイツ語でヘーゲルを読む会、美学の会も。もう40年ほど続くものもある。

哲学の原理は日々の生活の根元をなすもの

 読書会や勉強会の仲間にはいろんな職業の人たちがいます。普通に暮らす人たちです。僕が、地域でなんとか自分なりに生きていけるな、と思えたのは、こうした会でのつながりが大きい。食っていける、という意味ではなくて、自分が社会の中で、判断が大きく間違うこともないし、他人をひどく傷つけることもなくやっていけるんじゃないかと。そういう自信を得られた気がする。

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