身近な課題に向き合い人生を切り開く。対話の意思を伝える。在野の哲学者が得たもの
2018年08月17日
「1968年 全共闘とは何だったのか?」「1968」の敗北を経て見えてきたもの」に引き続き、ヘーゲルの翻訳やエッセイで知られる哲学者の長谷川宏さん(78)のお話を聞く。最終回の今回は、1968年からの50年間の長い思索の旅を改めて振り返りつつ、今の政治や世界情勢について語っていただいた。(聞き手 朝日新聞論説委員・藤生京子)
――塾の1期生が、還暦を迎えたそうですね。
「赤門塾」という名前は、東大を去ったお前の思想と矛盾するじゃないかと、よく言われました。その通りで、さしあたり生活のためだと、説明してきた。
ただ、いい学校・いい会社というコースに乗るための進学塾ではありません。一人ひとりの個性を尊重し、子供たちには自分なりの生きかたを見つけてほしい。そのためにカリキュラムにとらわれず学び、語り合い、多様なものの見方を身につける――。まあ、そんなふうなことを目指してやってきました。その意味で、「赤門」は半ば反語的なニュアンスもあって、悪くないのかな、と。
もちろん、進学したい子は応援します。優秀といわれる大学に進んだ子も何人もいる。全体としていえば、いわゆる社会的に成功した生徒は多くありませんが、それぞれにいろんな人生を歩んでいる。失敗もあっただろうし、私生活での苦労も小さくないでしょうが、よく耐えて生きていると思います。
最近の若者は、独立起業したり、農業を始めたり、ほんとうに自分がやりたいことを模索して新しい働き方をする人が増えているでしょう。そうした潮流を、多少、先取りしてきた部分はあるかもしれない。
――長谷川さんの全共闘体験を受け継いでいる?
それはどうかな。バリケードの中のことや僕の体験を、ことさら話してきたわけではないですからね。子供たちも、それほど関心はもたなかったと思うし。
ただ、このおっちゃん、なんでこんな生き方してるんだろう、というふうに、興味をもつ子はいたようです。うちの子も通う地元の学校で教師の暴力が問題となったとき、学校にかけあったりもしましたからね。その意味では、社会や学校に対して多少とも批判的な関わりかたをしていたわけで。「おっちゃんが行くと、あの暴力教師、おとなしくなるんだよ」と感心されることもありました。
先生と生徒の関係とか、教える・教えられるということの意味とか、自分が正しいと思うことを主張することの大切さとか。そういう話を、とてもゆるやかなかたちでしてきたとはいえるかもしれません。
――全共闘の話よりも。
そう。僕らの価値を押しつけるようなことがあってはならない。その点はとても肝心で、心してきました。
付け加えると、あの時代や運動を経験、通過した当事者同士だからといって、話が通じる、というほど事は簡単ではないですからね。
――というと?
所沢に住み始めた1970年代、わが家にはいろんな人たちがやってきた時期がありました。カミさんも僕も人づきあいが好きだったし、外の人から見れば、ここに来ればお酒が飲めるということで、来やすかったんでしょう。元の運動仲間もいたし、僕が雑誌「現代の眼」なんかに書いた文章を読んでくれて、訪ねてきた人もいた。運動を続けている人も、挫折した人も、いろいろ。
それでいっぱい議論して、面白い人もたくさんいたんだけど、意外に話が通じにくいと思ったのも事実なんですよね。経験も違えば、現在の生活も違う。つまり、政治的な思想の近さが人と人とを結びつけるわけじゃない、ということ。5年くらいで、そういうつきあいは急速に減っていきました。
それでいえば、最近よくうちに泊まりにくる塾のOBがいる。希望する高校に入れず、やむをえず自衛隊に入った男の子なんだけど、不安定な世界情勢や、集団的自衛権を認める安保法のことなどが気にかかって、あるときこう言ったんです。「おれはおまえが、人を殺すのも、人に殺されるのもいやだ。どこかで自衛隊をやめる決意をしてほしい」と。そうしたら、彼は「おれ、やめないよ」と、きっぱりとした返事で。
でも、長いつきあいがそれで疎遠になってしまうわけではなく、以前と変わらぬつきあいが続いているんですよ。
――いいですね。そこで即座に「やめる」といったら、歯ごたえないですもんね。
うん、互いに自分の考えを持ちながらつきあっているのがいい。彼の場合、自分の意見をはっきり持ちつつ、他方では、僕が何でそう考えるのか、真意を聞こうとしていたようです。その態度から、あっ、自分の言うことが多少とも伝わっているんだな、とわかった。
うまく対話ができていたわけではないし、得意気になっていう話ではないですけど、たとえかみあわなくて、ときに口げんかになることがあっても、あきらめず話を続けていけたらいいなと思いますね。ほんとに、そう思う。対話しようとする意思が相手に伝わること、意思を伝えることが、大切ではないかな。
――日本でも世界でも、「分断」がキーワードになっています。居場所のない人が増え、孤立がいろんな事件を引き起こしている、ともいわれます。対話への努力は、ますます大切だと思えますね。
本当に。自分もできるだけそう動きたいし、周りもそう動いてほしいと思いますね。
全共闘の運動の中で、リンチを受けて復讐心に燃える友人に対して、報復のリンチはしない、してはいけない、と強く主張したことがあります。その場での相手の不満感、不信の情は痛いほど分かりましたが、しんどくても、難しくても、言うべきことは言わねばならぬ、とこっちも必死でした。
繰り返しになりますが、議論することへの安心と信頼が、僕の中にある。それはやはり、運動を通じて得たものだといえるでしょうね。
日本の1968年については、この10年あまり、全体像をつかもうとする研究などが少しずつ出てきた。運動が起きた時代背景、社会構造の分析、そして新たな問いと社会運動が生まれる助走期間でもあったというふうに、意義も見いだされている。一方で、運動の敗北がその後の社会全体のシラケを生んだとか、個人的にもその後の人生がうまくいかず挫折になった、といったネガティブな評価も少なくない。
――長谷川さんの場合、闘争体験は「敗北だが挫折ではない」ということでした。改めてお聞きします。後悔したことはありませんか。別の人生もあったのではないか、とか。
ないなあ、それは。全共闘がうまくいった、と言いたいわけではなく、いろいろ失敗もあったけど、僕自身は、アカデミズムを離れた解放感は大きかった。
有り難いことに、大学で教えないかと何度も誘ってもらったし、時々、頼まれて大学に出向くこともありました。昔の知りあいと顔をあわせるときなどは、居心地の悪さを感じないわけではなかった。若い研究者とのつきあいで、迷惑をかけてはいけないと遠慮したこともある。
そうこうしながら、ずっと一人で仕事を続け、仲間に恵まれ、地域で自然体で暮らせたのはよかった。比較することではないですけど、こっちのほうが豊かだし、ほんとにそれは得したなと思う。
78歳。研究と執筆、読書会や講演などのかたわら、今も週3回は塾で教える。一対一の授業も。合宿にも参加する。そのレポートでは、一人ひとりの子供たちの動き、性格や周囲とのかかわりについて記す筆致が、実に細やかだ。そして最大の日課は、家族のための食事づくり。3人の孫育てに忙しい。
――日常の地平を大事にする、長谷川さんの目には、いまの政治や世界情勢など、どんなふうに映りますか。
孫たちの将来を考えると、憲法9条をめぐる動きは気になりますね。また政治家の品のなさは、本当にくさくさする。どうにかしなきゃと強く思うのは、経済格差。なぜ日本では、経済面での社会主義的な平等思想が支持を得ないんだろうと、とても不思議です。経済的に平等なのが人間の自然なあり方だと思うのですがね。
そういえば、特定秘密保護法の成立のときは、塾のOBたちと一緒に、国会前へデモに行きました。何十年ぶりになるのかな。最近は若い人たちもデモに出かけて、非常にいいことだと思いますね。僕も本当はもっと行きたいんだけど、体力的にしんどくて。
――とはいえ、中長期的に見れば、異議申し立てのムードは強くありません。政治のていたらくを許してしまったのは、人々が愚かになった、自分の利益のみに関心を向けてきた結果だ、という見方もあります。
人々が愚かだという感じは持ちません。まあ、僕が塾や読書会や地域の集まりなどでつきあいのある、せいぜい200人くらいの顔を思い浮かべてのことですが。
確かにそこでは、ふだん政治の話はほとんど出ません。でも、普通に暮らす人たちが、政治よりも身の回りのことに懸命になるのは、ある意味で当然でしょう。
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