2018年08月17日
大学のセクハラ事案の調査や調停に関与してみて、わかったことがある。セクハラ加害者には共通点がある、ということだ。
加害者のほとんどはリピーターである。彼らは「権力の濫用」が可能な状況と判断すれば、ノーを言えない相手や状況を冷静に選んで権力を行使する。他方、セクハラ被害者の陥る罠は、自分だけがこんな目にあっている、と孤立し、沈黙することである。矢野事件であきらかになったように、被害者の受忍は、ほかの女性も同じような目にあっているとわかったことで断ち切られる。しかも加害者の側に加害の自覚がなく、この点で被害者とのあいだに著しい認知ギャップがあることもわかっている。加害者にとって「この程度のこと」が、被害者にとっては深刻な打撃になっていることに気がつかない。
それ以前に加害者は、相手の笑顔や曖昧な態度が、すべて自分に向けられた好意だと、状況を自分に有利に解釈することに長(た)けている。その過程で言語化されない「ノー」のサインに、加害者はすこぶる鈍感だ。要所要所で被害者は言語化しないまでも、身体的な「ノー」のサインを送っているはずだ。セクハラ加害者を見ると、あなたのその鈍感さが罰せられているのだ、と言いたくなる。しかもそれを指摘され、責められると逆ギレする傾向さえある。
だが、セクハラ加害者の困惑にも理解可能な点がある。「ボクは昔から同じことをしているだけなのに……」と、かつては通用したふるまいが今は通用しないことに困惑したリピーター男性に同情する理由はないが、そう、そのとおり、「ボクは少しも変わっていない」。変わったのは、社会通念と女性の意識のほうである。これまでの女性なら受忍したかもしれないふるまいを、若い女性は受忍しなくなった。それには世代による変化だけでなく、晩婚化と就労率の高まりにともなって、職場が女性にとって、かんたんに手放してよいものではなくなったことが関係している。かつてなら不愉快な思いをしたら、黙って職場を去っていたかもしれない女性たちは、沈黙の代わりに告発を選ぶようになった。
だが80年代末、セクハラが問題化されるようになった頃、田原総一朗氏は「(女性の職場進出は)男湯に女が裸で入ってくるようなもの」と言ったことがある(パンドラ編『バトルセックス』現代書館、1990)。だからどんな目にあっても仕方がない、と。だが職場は「男湯」ではないし、私的な空間でもない。今やあらゆる職場に女性がいるし、仕事は女性にとってなくてはならないものになった。「職務の遂行を阻害する」要因としてのセクハラは、深刻な「労働災害」として対応しなければならないものになった。
セクハラの何が問題なのか? セクハラは人権侵害の不法行為であるという法理はすでに成り立っている。侵害されるのは、どんな人権か? 「意に反する性的言動」が侵すのは「性的自己決定権」という人権である。だがほんとうにそれだけか? セクハラに対する、人権侵害ということばでは言い尽くせないこの不快さには、もっと根の深い根拠がある。
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