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「8割おじさん」西浦博は「体制内改革派」として真のプロになってほしい

『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』を読む

今野哲男 編集者・ライター

 冬を迎え新年が過ぎて、首都圏を中心にコロナ禍は勢いを増す一方だ。医療崩壊が危惧されるなか、首都圏4都県合同の緊急事態宣言発出要請に、政府も漸く重い腰を上げた。1月2日夜の4知事との面接を、西村康稔経済再生担当相兼新型コロナ対策担当相に託し、黙って公邸を引き揚げた菅首相も、さすがに黙り続けていることができなくなったらしい。

 だが、気を許してはならない。経済再生担当大臣が新型コロナ対策担当大臣を兼ねるという理解し難い構図のなかにこそ、政府・自民党・官僚機構が長年進めてきた、単なるコロナ対策には留まらない、歴史的な医療・福祉政策の大筋が見えるからである。要は、経済か医療・福祉かとなった場合、政府の価値判断は一貫して経済(新自由主義的なシステム)の護持にあり、だからこそコロナに関する諸施策も、経済担当者の指揮下に置かれているのだ。

 それを裏付ける政府の施策は、最近の事例に限っても、①「保健所法」が「地域保健法」に改定され国家が保健所の統廃合を進めた結果、2020年3月末までの約30年で総数469とほぼ半減、それに伴って人員数も激減したこと。②命を救うべき医学界から、救命の見込みがない重度の傷病者や老衰者などの治療は積極的に行わないことを認めるガイドラインが、次々に出されていること。③2019年に厚労省が全国の公立公的病院の再編統合を提起し、次いで政府の「経済財政諮問会議」で政府の意を受けた民間委員が全国の病床を13万床削減することを提言、厚労省もコロナの感染が拡大するまでこの提言に沿って動いていたこと、など枚挙に暇がない……。

新型コロナウイルス感染症の患者を受け入れている全国の病院から「医療崩壊」を訴える悲鳴があがっている=東京都三鷹市の杏林大学病院新型コロナウイルス感染症の患者を受け入れている全国の病院から「医療崩壊」を訴える声が続々と上がっている=東京都三鷹市の杏林大学病院

 保健所に加え、医療や介護の現場から上がる切実な悲鳴を前にして、権力側の隠された実態と本音はこの通りなのである。いまだにPCR検査に消極的で、「Go To」を前倒ししてまで実施した狼藉ぶりの根っこには、上記のもはや時代錯誤と言うしかない目論見があることを忘れてはならない。それがこの時代を生きる民主国家の国民の、最低限のたしなみであるべきだろう。

大いに期待して読んでみたが……

西浦博・京都大学大学院医学研究科教授西浦博・京都大学大学院医学研究科教授

 さて問題は、コロナの感染が急拡大した年末のタイミングで刊行された『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(西浦博著、聞き手・川端裕人、中央公論新社)である。

『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(西浦博著、聞き手・川端裕人、中央公論新社)西浦博著『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(聞き手・川端裕人、中央公論新社)
 「8割おじさん」と言われ、毀誉褒貶が相半ばしたこの人の「厚労省クラスター対策班」という立ち位置と、その専門家としての高度で大胆な予測、さらに書名に書き込まれた「いのち」という言葉から推して、通り一編の「御用学者」ではない、若き「体制内改革派」とでもいうべき像を思い描いたわたしは、大いに期待して読んでみた。

 そして、この国が苦手とする危機管理に資するという点では大いに評価できると思ったものの、基本的に①~③の3項目に象徴される国の政策や目論見に関する言及が、残念ながら暗示さえされていないという点で、「体制内改革派」と呼ぶのは時期尚早で、現実には「コップの中の嵐」を呼んだに過ぎないのではないかと思わざるを得なかった。

 高度に専門的な事柄を、丁寧にかみ砕いて述べるその内容は、自らの知見を科学者としてのあるべき自制と矜持で支えていると尊重したいと思うが、忘れてはならない現実を、結果としてでも覆い隠す力に加担してしまった点で、そのマイナスのほうが重いと思ったのだ。

「8割おじさん」問題の根底にあるもの

2020年4月7日、緊急事態宣言を発出した安倍首相(当時)の「人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減」という発言は波紋を呼んだ2020年4月7日、緊急事態宣言を発出した安倍首相(当時)の「人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減」という発言は波紋を呼んだ

 そんな私が、本書の専門的な知見について述べても仕方ない。ここでは、安倍首相(当時)が2020年4月7日の緊急事態宣言発出の際の会見で「全員が努力を重ね、人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減することができれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができる」と発言し、その8割という数字を巡って種々の発言が交錯した、あの「8割おじさん」騒ぎの引き金がどこにあったのかを見極めるために、その発端となった発言を伝える『毎日新聞』デジタル版4月15日付の記事を引用するに留める。

「対策何もしないと重篤患者85万人」北大教授試算 「対策で流行止められる」
 新型コロナウイルスの流行対策を何もしないと、国内での重篤患者数が約85万人に上るとの試算を、厚生労働省クラスター対策班の西浦博・北海道大教授が15日、公表した。また、重篤患者のうちほぼ半数の40万人以上が死亡すると予測している。外出自粛に代表される行動制限によって、感染被害を軽減できることを市民に理解してもらうのが狙いという(……後略/太字は筆者)。

 被取材者の西浦にとって、この文章で最も大事なのは、三番目の文にある「~行動制限によって、感染被害を軽減できることを市民に理解してもらうのが狙い」という部分だろう。しかし取材者は、より刺激的な文面が頭にあったのか、「新型コロナウイルスの流行対策を何もしないと、国内での重篤患者数が約85万人に上るという試算を~」云々と書き出してしまった。

 そして読者の多くが、「『対策何もしないと重篤患者85万人』北大教授試算 『対策で流行止められる』」という見出しにもかかわらず、その書き出し部分の「何もしないと」という欠かせない条件を忘れてしまい、「重篤患者85万人」や第二文にある「40万人以上が死亡」だけを記憶に残し、やがて記事は歪んだ形で一人歩きを始め、ついに「8割おじさん」の真の「狙い」が見え辛くなってしまった面があるのではないか。この三者によるボタンの掛け違いが、「8割おじさん」問題の根底にはあると思われる。

 逆に、あの「狙い」を三者が明瞭に意識していたら、あの騒ぎは軽減されていたと残念に思う。なぜ、「残念に思う」か。もちろん、このセンセーショナルな誤解がなす術もなく放置されたが故に、「看過してはならない」あの①~③の悪しき事情が看過されてしまったからだ。つまり、「8割おじさん」問題には、我々の知るべき政府の「狙い」を看過しようとする側に、知らず知らずにせよ加担する脇の甘さがつきまとっていたのだ。

 かくなる上は、今からでも一向に構わない。西浦には、権力側の悪しき狙いにも目を光らせる、「体制内改革」をなす真のプロとして、もう一皮剥けてもらうことを願うばかりだ。