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中東ニュースの基礎知識 中東革命か、アラブ革命か ニコニコ生放送は11日夜

臼杵陽・日本女子大学教授 via朝日新聞『Journalism』7月号

 朝日新聞社のジャーナリズム&メディア研究誌「Journalism」(ジャーナリズム)2011年7月号が7月8日に発行されました。WEBRONZAは同誌と連携にメディアのあり方や役割を考えています。7月号の中から臼杵陽・日本女子大学教授の「中東ニュースの基礎知識 中東革命か、アラブ革命か」をお届けします。

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【お知らせ】

 朝日新聞『Journalism』の本論考を踏まえた番組が7月11日21時30分から、ニコニコ動画で生放送されます。出演は、鬼頭恒成(ジャーナリズム編集部)、伊丹和弘(ジャーナリズム編集部)、臼杵陽(日本女子大学文学部教授)、司会進行:杉本誠司(ニワンゴ社長)。ぜひご覧下さい。番組URLはhttp://live.nicovideo.jp/watch/lv55660108です。

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中東ニュースの基礎知識 中東革命か、アラブ革命か

臼杵陽・日本女子大学教授

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拡大臼杵陽・日本女子大学教授
臼杵 陽(うすき・あきら)

日本女子大学文学部教授。1956 年大分県生まれ。在ヨルダン日本大使館専門調査員、佐賀大学助教授・国立民族学博物館教授、ヘブライ大学トルーマン平和研究所客員研究員などを経て現職。日本中東学会会長。主な著書に『イスラエル』(岩波新書)、『原理主義』(岩波書店)、

『見えざるユダヤ人―イスラエルの〈東洋〉』(平凡社)、『イスラムの近代を読みなおす』(毎日新聞社)、『イスラームはなぜ敵とさ

れたのか』(青土社)、『大川周明―イスラームと天皇のはざまで』(青土社)など。

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 2011年5月2日、ビン・ラーディンが米海軍特殊部隊によってパキスタンの潜伏先で殺害された。狂喜する米国民の姿が映像で映し出されたが、この暗殺は米国内向けのショーではないかと勘ぐってしまうほどの政治劇であった。少なくとも、9・11事件から10年もの歳月を経てからようやく米国は容疑者の殺害という目的を達成したのである。

 しかし、米国以外での評価といえば「すでに存在理由を失った中年男が殺されたに過ぎない」(「インディペンデント」紙記者のロバート・フィスク氏)の発言に象徴される。ビン・ラーディンはイスラー2 ム世界同時革命論を唱え、ムバーラク・エジプト大統領などの親米のアラブ独裁者をテロによって倒し、新しいカリフ体制を誕生させることを目的として活動していた。米国はそのようなアラブ独裁体制を支えてきていた。9・11事件は、中東アラブ世界に介入してきた米国を「イスラームの家」から追い出すための闘いであり、イスラーム世界内部の革命に先行したものであった。少なくとも、アル・カーイダの立場からは以上のように説明できるものであった。

 ビン・ラーディン殺害は2010年末以来、アラブ世界を席巻している革命の波の中で起こった。チュニジアの「ジャスミン革命」、そしてエジプトの「1・25 革命」である。ベン・アリー政権およびムバーラク政権が民衆の力によって崩壊に追い込まれたのである。その際、民衆のデモのスローガンはイスラームのためではなく、自由のためであったが、ビン・ラーディンの闘いの目標と合致するものだった。殺害後、彼がアラブ革命を賞賛したというビデオが残されていると報じられたりしたが、そのような報道もタイミングとしてはアラブ革命を貶めるかのような流され方であった。それ以上に日本のメディアの報道は過熱気味であり、報復テロへの警戒を呼び掛けるものであった。

 アル・カーイダのナンバー2で後継者になったと目されているアイマン・ザワーヒリーはエジプト出身でカイロ大学医学部卒業のエリートで小児科医であったが、今回のエジプト革命では何の政治的な影響力も持ち得なかった。アル・カーイダが政治的な影響があるとしてもそれはイエメンなどアラビア半島やソマリアなど「アフリカの角」などといった一部不安定地域に限られるだろう。

 アル・カーイダはイスラーム解放党と同じようなネットワーク型の政治組織といわれ、ビン・ラーディンと他のイスラーム過激派指導者との連携関係が重要だった。最高指導者の死によってアル・カーイダは弱体化する可能性が強い。そのネットワークの結節点ともいうべき人物を失ったからである。

 今回の一連の革命は「中東革命」「アラブ革命」などと呼ばれている。どちらが相応しい名称なのだろうか。

 我々日本人は中東世界、アラブ世界、アラブ世界、イスラーム世界を自覚的には区別して使っていない。さらに似て非なる地域名称である中東、近東、中近東の区別となるともっと難しい。そして、アラブ世界とイスラーム世界は互換性のある地域名称だと思っている人も少なからずいる。つまり、アラブ世界にはムスリム(イスラーム教徒)しか住んでいないと思い込んでいる。 しかし、実際にはキリスト教徒のアラブ人も、ユダヤ教徒のアラブ人もいる。一般には中東は今ひとつよく理解されていない地域といえよう。

アラブ世界とイスラム世界 中東、近東、中近東の違い

 そこでまず、中東、近東、中近東の違いを簡単に説明してみよう。これらはおおざっぱに言うと、西アジア(あるいは南西アジア)と北アフリカを合わせた地域である。ところが、地域名なのに南米や東欧などとは異なり具体的な地理を指す文字がなく、方角と距離感の組み合わせだけでできている。つまり、ある立ち位置から見て、名付けた地域名なのだ。西欧人が当時重要な植民地拠点だったインドを「東方」の基準とし、ヨーロッパに近い「東方」を分類したヨーロッパ中心的な英国の考え方なのだ。したがってインドよりも東にある日本や中国は極東と呼ばれた。文字通りには「遠東」(FarEast)ということになる。

 19世紀には近東は大雑把にオスマン帝国領を指していた。一方、19世紀末から20世紀初頭の「中東」は現在とはまったく異なり、イラン・アフガニスタン付近に相当する地域だった(当時この地域の覇権を英露が激しく争っており、のちに「グレートゲーム」と呼ばれた)。中東や近東は歴史的な段階によってその範囲を収縮自在に変えているのだ。

 日本でよく使われる地域名として「中近東」がある。「長い19世紀」(フランス革命から第一次世界大戦開始まで)の後、両大戦間期に貿易を介してこの地域との関係を緊密化していった日本は、1920年代に入って中東と近東を併せた中近東という名称を使い始めた。スエズ運河沿いの港町ポートサイード、スエズ運河に近い地中海岸の港湾都市アレキサンドリア、黒海と地中海を結ぶ戦略的に重要なボスポラス・ダーダネルス両海峡のあるイスタンブルなどに日本の領事館が設立されたのもこの時期に当たる。このような歴史から、今でも中近東の名称を使う日本のメディアは少なくない。外務省が発行する『外交青書』でも2000年版までは主要地域の一つとして「中近東」を使っていた(01年版からは「中東」)。

 第二次世界大戦後には中東という地域名称が一般的になる。その範囲は広がり、言語文化圏でいえば、アラビア語のアラブ世界、トルコ語およびチュルク系諸言語(おもに中央アジア)のトルコ世界、そしてペルシア語やダリー語(アフガニスタンの公用語の一つ)のイラン世界が含まれる地域となる。つまり、中東はトルコ、イラン、そしてアラビア半島を含む西アジアから北アフリカのアラブ地域で構成される。今回の政変は主にアラブ世界での革命であり、イランやトルコではその動きは連動していないので、やはり「中東革命」というよりも「アラブ革命」と呼ぶのが適当である。

 

 地域名称に関してもう一言述べれば、このところ、欧米では中東・北アフリカはMミーナENA(ミドルイースト&ノースアフリカ)という略称で呼ばれるようになった。というのも、北アフリカのマグリブ三国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)がフランス植民地であり、リビアがイタリア植民地であったために東アラブ地域とは区別されるからである。ちなみにエジプトは英国の植民地であった。シリア、レバノン、イラク、ヨルダン、パレスチナといった地域は第一次世界大戦まではオスマン帝国の直轄の領土であったことも忘れるべきではない。

大陸侵略の一環だった日本のイスラム研究

 日本と中東との関係を歴史的に振り返ると、明治期の「脱亜入欧」の風潮の中で日本人の目に中東は止まることはなかった。日本人は欧州に「洋行」するとき必ずや中東を通過せざるを得なかった。すなわち、東シナ海、インド洋を経由して紅海に入り、いったんはポートサイードあたりで上陸、陸路でカイロを経由してアレキサンドリアに出て、船がスエズ運河を通過してくるのを待って再度乗船するのが常だった。ところが、ヨーロッパに「洋行」した日本のエリートたちは必ずや立ち寄ったはずのエジプトにはほとんど関心を示さなかった。というのも、英国の植民地になってしまったエジプトには学ぶべきものがほとんどないと考えたからだろう。

 ただ、岩倉使節団は1873年、米欧訪問の帰りにエジプトに寄った。その後も不平等条約を押しつけられたエジプトのムハマンド・アリー朝を視察する目的で専門家が派遣された。当時の日本から見ればエジプトは列強の従属国になってしまった反面教師だった。とりわけ条約改正を早期に実現するために欧米の歓心を買う必要があったため、英仏などから提案された混合裁判所を日本でも設置するかどうするかという問題は深刻な政治的争点だった。しかし、日本はエジプトと違って結果的に外国人判事を認めなかったために、独立国の体面を保った。そして、日本は20世紀に入り条約改正に成功したのである。

 逆にエジプトは1882年のオラービー革命の失敗で、英国の植民地(「保護国」という名目だったが)になってしまった。反英反乱の指導者であったオラービー大佐は同じく英国の植民地であったセイロン(現スリランカ)に流刑の憂き目にあった。そのとき、幽閉されたオラービーを谷干城・農商務相とその秘書・東海散士(本名・柴四朗)が訪問したのである。日本人にもまだ欧米諸列強の植民地化に抗した人々への連帯の意識があったことの証左でもある。ちなみに、東海散士は文学史上、政治小説『佳人之奇遇』の著者として知られるが、『埃及近世史』という日本で最初のエジプト現代史を著した人物でもある。

 1930年代には日本は市場として中東を見出した。日本の絹製品の輸出がレバノンのシルク産業を壊滅状態に追い込み、また日本の養殖真珠がクウェートをはじめとするアラブ湾岸諸国の天然真珠の地場産業を潰したことを知る日本人はほとんどいない。莫大な埋蔵量を誇る油田が発見されて、石油で潤う前のアラブ世界は日本にとって一方的な輸出先としての市場に過ぎなかったのである。

 戦前の日本にとって、イスラームが問題になり出すのは戦争を契機としてである。第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、戦後、日本は干渉戦争としてシベリア出兵を行うが、その時、旧ロシア帝国領から逃れてきたムスリムと出会うことになる。1938年に東京・代々木にモスクを建立したタタール系トルコ人のムスリムである。このタタール系ムスリムには黎明期のテレビで活躍したロイ・ジェームスなどがいた。おそらく日本人のほとんどが彼をムスリムだとは認識していなかっただろう。欧米からやってきた「白人」だと思っていたにちがいない。せいぜい、彼を「白系ロシア人」という広い範疇に入れて認識する、ちょっと博識の人々もいたかもしれない。

 1931年の満州事変から37年の日中戦争、そして41年の太平洋戦争という15 年間にわたる戦争の泥沼化において、イスラームが問題になったのはとりわけ日中戦争開始後である。中国における国共合作に対する分断工作のために中国のムスリムが日本軍の動員の対象となっていったのである。この分断工作は失敗するが、1938年という年が日本の日本のイスラーム研究にとっての転換点になった。代々木の東京モスクが建立されたのも、大日本回教協会などといったイスラーム関係の団体が設立されたのも、「回教世界」「回教問題」「回教圏」といったイスラームの専門誌が発刊されたのもこの年であり、日本のイスラーム研究は大陸侵略の一環戦略研究として行なわれることになったのである。

 しかし、日本がソ連を仮想敵とする「北進論」から、1940年夏に米英との対決を辞さない「南進論」に転換したのちに、日本のイスラーム研究は、太平洋戦争緒戦において占領したオランダ領インドネシアやイギリス領マレーなどのムスリムを対象とするものに移っていった。インドネシアの人口の大部分がムスリムであったために「大東亜共栄圏」の理念実現に向け、占領政策の一環としてイスラーム研究はなされたのである。ただし、イスラーム理解という観点からは、ムスリムに宮城遥拝や神社への参拝を強制するなどといった中国での失敗を、占領当初はそのまま踏襲するといったことを繰り返していた。

対米外交に従属した日本の対アラブ外交

 戦後についていえば、インドネシアは主権国家としては最もムスリム人口の多い国であるが、戦前は現在のパキスタンとバングラデシュ等の領域をも含む英領インドが最大のムスリム人口を誇っていた。ちなみに現在はパキスタンが2位、インドが3位、そして4位がバングラデシュと南アジア諸国が続く。つまり、ムスリム人口の観点だけからいえば、イスラーム世界の中心はアジアだということができるが、日本人はイスラームといえばアラブに結びつけてしまう傾向があり、やはり日本人のイスラーム認識のゆがみがそのようなところにも表れている。

 第二次世界大戦後、アメリカの占領下にあって日本の戦前のイスラーム研究の伝統はいったん途切れたかたちになった。しかし、1950年代にアジア・アフリカ・ラテンアメリカの第三世界における民族解放運動が活発になると、むしろナショナリズムを介して中東地域との関係をもつようになっていった。たとえば、ナーセル・エジプト大統領によるスエズ運河国有化宣言とそれに伴う第二次中東戦争(1956年)を機に、日本のメディアもアラブ・ナショナリズムの旗手としてナーセルをしばしば取り上げることになった。しかし、日本にとって中東が重要になってくるのはもっぱら石油供給国としてであった。すなわち、1973年の第四次中東戦争のときにアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油戦略発動による「石油ショック」を経験したために、日本はアブラ欲しさにアラブに媚を売ったとまでいわれるようなアラブ追従外交を行なう事態に立ち至った。中東は日本のエネルギー政策にとってまさに「油断」できない相手として浮かび上がってきたのである。

 そして1979年のイラン・イスラーム革命の勃発は日本でもイスラームとは何かを再考する契機となった。とりわけ、イスラーム研究の碩学である井筒俊彦(岩波文庫版『コーラン』の翻訳者としてすでに知られていた)がイランから帰国して、以後矢継ぎ早にイスラーム思想関係の著書を上梓し、シーア派およびスーフィズム(イスラーム神秘主義)を中心とするイスラーム哲学・神学を東洋思想の一部として日本に紹介すると幅広い読者層を獲得することになった。

 1990年から91年にかけての湾岸危機から湾岸戦争に至るプロセスで中東は日本にとって対米外交が試される試金石になっていった。つまり、「国際貢献」という名前の下で米国との同盟関係が強化されていくことになった。さらに2001年の9・11事件以降はなし崩し的にインド洋に自衛隊を派遣するまでに至った。日本外交は対米外交、アジア外交、そして国連外交という三本柱をバランスよく使い分けることで独自外交が展開されるべきであるが、当時の中東外交はアジア外交の柱の一つであるにもかかわらず、対米外交に従属するかたちになった。つまり、アジア外交に中東は位置づけられているが、中東をアジアとしては見ておらず、アメリカの中東外交の一端を担ったということである。

 アメリカと中東の関係を振り返ってみると、いささか大上段に構えて述べると、1979年のイラン革命は以後の世界を変える出来事だった。同じ年にソ連がアフガニスタンに侵攻し、結果的にソ連崩壊の端緒となった。また、中東では翌年、イスラーム革命の波及を阻止するためにイラン・イラク戦争が勃発して、サッダーム・フセイン・イラク大統領がアメリカにとって国際政治におけるフランケンシュタインになっていくきっかけとなり、2003年のイラク戦争への伏線となった。イラン革命は21世紀の国際政治を決定づけたともいえるのである。

造語「イスラム原理主義」がマイナス・イメージを固定

 同時に、イラン革命時に在テヘラン・アメリカ大使館の館員たちがイランの若者に拉致されることで、アメリカ・イラン関係はシャー体制の崩壊も相まって急激に悪化した。さらに、この拉致事件は米国においてイスラーム(とくにシーア派)は暴力的で過激だというイメージが付与されることになって、イスラーム=テロリズムという9・11事件後のイメージの原型を提供することになった。

 しかし、実際にはシーア派はスンナ派とは違い、キリスト教でいえばカトリックと同じような聖職者による位階構造をもっているため、きわめて統制されており、聖職者の意向に反した「テロ」が行なわれる可能性は低い。もちろん預言者ムハンマドを冒瀆した『悪魔の詩』の著者サルマン・ラシュディーに対するホメイニー師の死刑宣告事件のような事態もあった。しかし、実態としては多様なイスラーム法解釈が可能なスンナ派からアル・カーイダを含めて「テロリスト」と呼ばれる様々な過激派が生み出されていることも確かなのである。

 もともと「原理主義」(英語ではファンダメンタリズム)という言葉はキリスト教の一派で聖書の無誤謬性を主張する狂信的立場をさす言葉であったが、前述のイラン・イスラーム革命以降、その過激なイメージがイスラームにも適用されて、本来別個の単語がつなげられて「イスラム原理主義」という造語が生まれたのである。この用語によってイスラームに対するマイナスのイメージは固定化されることになった。原理主義という言葉を聞くと狂信性、不寛容性、暴力性、女性抑圧などといったものが連想されてしまうからである。ただし、マスコミで使われ始めてその用語自体が浸透してくると、原理主義に代わるイメージ喚起的な言葉もないということも明らかになってくる。たとえば、イスラーム主義、政治的イスラーム、あるいはイスラーム復興主義といった新たな用語も研究者の側から提起されたが、「イスラム原理主義」という用語がマスコミから駆逐されることはなかった。用語上の問題ではあるが、日本におけるイスラーム・イメージを考える際には示唆的である。「イスラム原理主義」という言葉がマスコミで使われ続ける以上、イスラームに関するマイナス・イメージは再生産され続けるという悪循環が起こるからである。

 とりわけ、9・11事件以降、テロをイスラームの文脈で捉えることになったために事態はいっそう深刻の度合いを増したともいえる。イスラームが分かればテロリストの動機が分かるといった説明の仕方である。イスラームにおけるジハード概念の乱用がその典型であり、イスラームには暴力を生み出す狂信性があると一部のマスコミでは説明されたりした。例えば、ジハードを「聖戦」と訳すことで宗教的な情熱に駆られた戦争というイメージが独り歩きを始めて、太平洋戦争の時の「撃ちてし止まん」的スローガンにおける戦時期日本の「聖戦」イメージとも重なることになった。さらに悪いことに、とりわけフランス語圏に多く見られるが、ムスリムのテロを「カミカゼ」と呼んだりもする。そしてイスラエルのイスラーム研究者がイスラームとカミカゼを組み合わせた『イスラミカゼ』といったタイトルの学術的な著作を出版するまでに至るのである。

 そのような状況を背景にして、日本にも「イスラモフォビア」と呼ばれる「イスラーム恐怖症」あるいは「イスラーム嫌い」が明確なかたちをとらないまま、なんとなく漂う風潮として広がることになる。日本社会ではムスリムは決して可視的な存在ではない。むしろムスリムであるかどうかなど気にもとめない。しかし、日本社会にほとんどムスリムが存在しないにもかかわらず、否、イスラームを知らないが故に、得体のしれない対象として、なんとなくイスラームは怖いというマイナス・イメージが形成されたわけである。イスラーム=危険の印象が決定的になったのである。

アフガンとイラクの失敗で米のアラブへの影響が低下

 今回のチュニジアとエジプトの革命をイスラームで読み解くと見誤る点をまず指摘しておかなければならない。もちろん、アラブ社会におけるイスラーム勢力の影響力がなくなったということではなく、むしろそれ以上に若い世代が街頭に出て自由を求める直接行動に出たということが最大の要因である。そこにあるのは一人ひとりの人間としての尊厳を求める思いだったことは特筆に値する。

 すべての根本にあるのは長期にわたる軍事独裁への反発であった。この軍事独裁があまりにも長く続いたので、研究者の中にはアラブ人はその体質からして権力に従属的な民族だと決めつけてしまう論調も見られた。その典型例がアメリカのイラク攻撃を主張した「ネオコン」と呼ばれた政策集団であった。「ネオコン」の発想の根底にあったのは次のような論理だった。すなわち、アラブ人には、独裁的な権威主義体制に対する内側から生まれる民主主義を希求する戦いは期待できない、したがって、外側から攻撃して独裁を倒して民主化を達成するしかない。2003年のイラク戦争はそのような論理で行われ、サッダーム・フセイン政権が倒されたのである。しかし、現段階で改めて思い起こす必要があるのは、アラブ独裁政権の崩壊の前史としてのアルジェリアである。

 1990年代初頭、アルジェリアで行われた一連の地方議会選挙でイスラーム救国戦線と呼ばれるイスラーム主義組織が圧倒的な勝利を収めた。もし国会選挙がそのまま実施されると、おそらくイランやスーダンに続いてイスラーム主義政権が誕生していたことだろう。しかし、アメリカのCIAが軍事クーデターによって民主主義の実験の絶好の機会を潰してしまったために、アルジェリアは内戦状態になったのである。ところが、今回米国はアラブ革命の流れに対して何もできなかった。アルジェリアの場合とは違った。チュニジアにしろ、エジプトにしろ、軍

部が米国より街頭に溢れ出たデモに参加した人々に顔を向けたからであり、現在に至るまで両国では大規模な反革命的なクーデターのような動きは見られない。もちろん、様々な政治勢力が次期政権を目指して水面下でうごめいているのは間違いない。

 なぜ米国が動けなかったのか。それは米国が中東における覇権を失いつつあるからである。つまり、超大国の凋落の兆しということであろう。ブッシュ政権は9・11事件後「対テロ戦争」の一環としてアフガニスタンに空爆し、ビン・ラーディンおよびアル・カーイダを匿っていたとされるターリバン政権を崩壊させた。しかし、アフガニスタン情勢は泥沼化してしまい、米軍が駐留している割にはまったく安定の兆しが見えない。また、大量破壊兵器を隠し持っているという名目で行われたイラク戦争も、戦争が終わってみると、そのような事実はなかったことが判明した。それ以上に重大な米国のイラクでの失政は、戦後すぐにフセイン大統領を捕捉できなかったために、フセインの亡霊に怯えて、占領政策を遂行するために必要だったテクノクラートである旧イラク国軍の高級将校やバース党の幹部をパージしてしまったことであった。そのため、イラクでは行政がうまく機能しなくなり、占領後半年たってから大混乱に陥り、占領当初ささやかれていた日本型の占領政策が実施できなくなった。いずれにせよ、イラクでの失政は米国の中東での威信低下につながってしまったのである。

アラブ民主化で進むイスラエルの右傾化

 米国と同様にアラブ革命で困っているのが、中東における米国の最強の同盟国イスラエルである。少なくとも、イスラエルの諜報機関はエジプトの動きを把握していなかった。つまり、同盟国としてムバーラク体制に対して絶大な信頼を寄せていたために情報収集を怠っていたといわれる。そもそもムバーラク大統領はことパレスチナ問題に関してはイスラエルとの協定に忠実であり、ガザのハマース政権を完全に封じ込めていたし、またガザ封鎖にも協力して、イスラエルと完全に歩調を合わせていたのである。さらに、イスラエルは中東における唯一の民主国家を自任しているが、アラブ諸国の独裁政権の継続はイスラエルの国益と一致していたのでアラブの独裁体制とは親和性が強かった。しかし、権威主義的独裁国であったアラブ諸国が民主国家となると、米国の中東外交の矛盾が一気に噴き出してきた。すなわち、建前として民主化を支援するという人権外交の中東政策と、本音としては独裁であっても同盟国であるアラブ諸国の安定を重視するという現実政治に基づく中東政策との間に横たわる矛盾である。サウジアラビアがその矛盾の結節点ともいえる王国であろう。同国は王族による独裁が行なわれており民主主義にはほど遠いにもかかわらず、石油大国であるがゆえに米国も簡単には口が出せない。サウジアラビアの不安定化は米国の中東政策の破綻といってもいい深刻な事態へと導くことになるからである。

 民主化という観点からはイスラエル国内政治の右傾化も米国にとっては頭の痛い問題である。イスラエルは前述のように中東唯一の民主国家を自任しているわけであるが、現在のネタニヤーフ政権は人種主義的な綱領を掲げる極右政党「イスラエルわが家」と連立を組んでおり、同党首リーベルマンが外相として入閣している。ネタニヤーフ首相は連立内閣を維持するために極右政党の意向に従わざるをえず、ユダヤ人入植地問題で非妥協的姿勢をとることになり、和平への道筋が少しも見えてこないという悪循環に陥っているのだ。おまけに次期大統領選挙を控えるオバマ米大統領は米国内のイスラエル・ロビーからの圧力にがんじがらめにされており、中東政策に関して強力な指導力を発揮するなどとうてい望むべくもない状況に追い込まれている。

 ところで、革命を成し遂げたチュニジアとエジプトの北アフリカの2カ国が歴史環境を共有しているということは意外に見落とされている。すなわち、チュニジアは領土として適正規模の大きさであり、またエジプトはナイル川沿いに暮らすフェッラーフ(農民)が支える農業国家である。しかも両国とも国民が比較的均質である。同時に、両国ともオスマン朝の統治下から事実上の独立王朝に脱皮して、それから立憲王政を経て、軍事クーデターによって軍人が大統領になって共和政治を経験したのである。何といっても近代化という観点からは両国は日本の明治維新よりもはるか前から富国強兵の道を歩もうとしたのであった。しかし、ヨーロッパ諸列強とは地中海を隔ててすぐ隣に接していたために、近代化政策に失敗して財政破綻から列強の軍事的介入を招き、不幸にしてそれぞれ仏英の植民地下に入るという共通した負の過去を背負っているのである。ちなみに、幕末に仏公使として日本にやってきたロッシュがチュニジアをはじめとする北アフリカをよく知る外交官であったことは偶然以上の要因があるといわざるを得ない。

 一方、リビアは旧イタリア領のトリポリとキレナイカとフェッザーンという文化的背景の異なる3地域を一つにした人工国家であった。もともとはオアシス国家(都市国家)であり、統一性はなかった。今回の攻防戦でカッダーフィー大佐を追放しても、リビアが今後、一つにまとまるのは難しい。かといって、現存の主権国家を分割して複数の独立国家にすることは他の中東・北アフリカ諸国への影響が多いためにできない。例えば、イラクは北部のクルド自治区を事実上の独立国家のように扱うしかないが、イラクという主権国家の国境変更は難しい。実際、キプロスのようにギリシアとトルコがそれぞれ南北の国家を承認して対立し、解決の見通しが立っていないことを考えると、分離独立の道は厳しい。その意味では、21世紀における東ティモールと南部スーダンの独立は例外中の例外というべきなのかもしれない。

複雑なバハレーン、ヨルダン 重大な局面を迎えるシリア

 その他の国々の動きを簡単に概観するとそれぞれの国家の独自の事情が反映されている。バハレーンは少数派のスンナ派ムスリムが多数派のシーア派ムスリムを支配している。しかし、南アジアからの移民労働者を含む複雑なエスニック構成を踏まえたうえで、石油所得の公正な分配という経済的な側面を抜きにしてはこの小さな王国の民主化問題を考えることはできない。同じ王制をとるヨルダンも事情は同じである。すなわち、石油収入がない分だけ民主化要求はそのまま反王制に向かうと思われがちだが、実際にはそのようにならない。隣国にイスラエルという軍事大国が控えており、ヨルダン国内にはその人口の半数以上を占めるパレスチナ人がいる。そのため、ヨルダン人とパレスチナ人という対立の問題が、都市と地方の経済的格差とも重なってしまい、政治的要求が統一された組織的デモに発展することは難しいのである。

 イエメンにしてもサーレハ大統領の独裁体制が続いている。アル・カーイダが依然として影響力をもつといわれるだけに、「対テロ戦争」の最前線でもあり、米国のサーレハ大統領への支援にも力が入る。その大統領が一時手術のためにサウジアラビアに出国したというニュースが流れたものの、それがそのまま同大統領の亡命にはつながらなかったようである。しかし、イエメンはリビア同様、革命と反革命が錯綜した状態にあることだけは間違いない。イエメンは紅海の出入り口にあたり、「アフリカの角」と呼ばれる地域には、ソマリアなどムスリムが多数を占める不安定な国々がある。ソマリアは日本では「海賊」としてしか認識されていないが、イスラームに関わる問題でもある。

 今、もっとも重大な局面を迎えているのはシリアであろう。市民のデモが始まって3カ月が経過し、シリアの治安部隊によって1000人以上の死者が出ていると報じられている。しかし、報道関係者は入国を禁止されているので、実際に何が起こっているかよくわからない。シリアの抑圧体制がどうなるかがアラブ革命の成否を決めるともいえる。現在進行中のアラブ革命はこれからが正念場ということになるのである。