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「べき論」の通じない日本社会で「差別論」を超える「沖縄報道」とは

渡辺豪(沖縄タイムス記者)

 「Journalism」2月号の特集「沖縄報道を問い直す」は、「本土と沖縄」の報道をめぐる課題や論点が網羅的に提示され、非常に興味深かった。一方で、筆者が沖縄で基地報道に携わって痛切に感じるのは、「こうあるべきだ」という「べき論」の限界だ。沖縄にかかわる問題だけでなく、今の日本社会は「べき論」が説得力をもち得なくなっている。

 世論もマスメディアも、正当な論理だから優先して対応する、という状況にはなっていない。実現困難な課題は非現実的な通用しない論理として「聞き流す」態度であしらわれがちだ。これでは現状維持や強者の論理が通りやすいのは必然だろう。今に始まったことではないのかもしれないが、「取り残される者の痛み」は過去にも増して行き場をなくしているように思う。

良心の呵責に訴える空しさ

 沖縄に基地負担が集中する現状が「正しくない」のは自明だ。が、事態はむしろ悪化している。糾弾とともに、「不当だと訴えても改善に向かわないのはなぜか」と考えを進める必要がある。

沖縄県の嘉手納以南の米軍基地返還計画について説明するため沖縄を訪れ、県内の市町村長たちと握手する小野寺五典防衛相(左)。首長たちからは厳しい意見が相次いだ=2013年4月6日午後2時すぎ、那覇市

 沖縄から今の状況は「差別だ」という声が飛んでいるが、「差別している側」とされている本土の人はどう受け止めているのだろうか。そもそも矛先が政府だけでなく一般住民にも向いているという自覚すらないのではないか。沖縄からどれだけ「差別だ」と訴えても交わらないのでは、という危惧が筆者にはある。差別している側は「差別の本質に向き合い、是正すべき」なのだが、こうした論説が今悲しいほどに通らない。

 差別の糾弾は相手の「良心の呵責」に訴える面があるが、それは相手(本土世論)の人格に多少なりの期待があるからだろう。しかし、筆者の実感としては、口にするのもつらく失礼を承知で強いて言うが、「期待するだけ無駄」なように思われる。

 2月5日付の朝日新聞夕刊に作家の池澤夏樹さんのコラムが掲載された。「構造的な差別の先には」との見出しが付く。池澤さんは沖縄で暮らした経験のある人だ。コラムを読み、実情を的確に捉えていると感服した。

 しかし末尾近くの数行が気になった。「抗議する沖縄人は基地になだれ込むだろう。米兵は彼らを撃つかもしれない」とのくだりだ。池澤さんは「縁起でもないことを敢えて言う」と断り、「恐ろしい妄想」とも語っている。だが、自分の身内かもしれない人を対象に想定すれば、こうした表現は出ない、と思った。沖縄県内の筆者の周囲でも批判的な声は聞かれた。

 一方で沖縄側の受け止めを熟知している池澤さんが、あえてリスク覚悟で発信したのではないか、とも感じた。かつてないほど事態が悪化している現状に自覚的だからこそ、池澤さんには「不似合い」な過激さを伴って、これまでと異なる言説をあえて用いたのではないか。圧倒的に沖縄の実情に無関心な「本土」の人間に向けて、「沖縄人が撃たれる」事態にまで陥らせるべきではないでしょう、と良心の呵責に訴えたのだと思う。筆者が味わったのは、池澤さんの表現能力をもってしても最終的には本土世論の「良心の呵責」に訴える手だてしか残されていないのかという敗北感だった。

どうすれば利害を共有できるか

 ではどうすればいいのか。

 米軍基地問題に関しては、沖縄と本土は利害が対立している、と捉えるほうが実情に即すると考えている。「利害対立」という言葉は本土と沖縄の基地をめぐる関係を語る上で新しい表現ではない。が、ここまで本土と沖縄の溝が深まった今、あらためて認識し直す価値はあると思う。正義か否かではなく、利害で判断している相手に良心の呵責を求めても無反応なのは必然、と理屈の上では理解できる。

 「どんな条件が整えば沖縄の負担軽減を認めるか」と全国世論に問えばどうだろう。手持ちに調査結果の資料はない。が、おそらく「自分の生活環境に影響が及ばず、かつ米国との関係がぎくしゃくしない」との条件がつくのではないか。政府やマスメディアはこうした「わがまま」なマジョリティーの声には耳を傾けるに違いない。

 沖縄が向き合う利害は、米国との良好な関係の維持という「国益」とも絡むため、ときに受益者である本土全体を相手に「利害調整」に臨まなければならない。「本土」をひと括りにすることで、沖縄はさらに不利な立場に追いやられる。

 こうなると、単なるNIMBY(ノット・イン・マイ・バック・ヤード)ではない。米国の真の意向はともかく、沖縄の負担軽減を進めるには対米関係も考慮しなければならない、との論拠で沖縄の声をはねつける十分な理由とされるからだ。このハードルの高さを沖縄県民は鳩山政権時に痛感した。

 今必要なのは、沖縄への過度な基地負担の継続が「日本全体の国益に照らしてもマイナスである」という論説の提示ではないか。その論が共有されない限り、本土側が当事者意識に目覚めることはないだろう。

 これまでは、「沖縄の基地負担は全国で分かち合うべきだ」という総論には賛成でも、具体的な基地の移転や受け入れ(各論)となると拒む、というのが本土の一般的な反応だった。しかし今は総論への同意も怪しくなっていないか。尖閣問題の先鋭化や中国の軍事的台頭が日々報じられ、沖縄を「本土防衛の砦」とするのを当然視する世論が醸成されているように映る。

 こうした認識を踏まえ、「差別構造」に対する沖縄内部の憤怒を、沖縄が主体的に主権を取り戻す胎動へ転化させることに筆者は意義を感じている。といっても、沖縄は現段階で「独立」を志向しているとは言い難い。それが事実である以上、「本土」を糾弾して亀裂を深めていく方向性はおのずと限界と矛盾に突き当たると感じている。

 本土に向けては逆に沖縄を外部化させないような「共通の利害」の提示が必要だと思われる。

 沖縄が日本に含まれているからこそ「尖閣は固有の領土」との論も立つ。沖縄が日本の領土であり続け、140万人もの日本人が居住していることは、どんな先進軍事技術の導入よりも安全保障上の大きなメリットとして機能している。その沖縄県民の多数が「日本」や「米軍」への嫌悪や不信を抱く現状は、安全保障上の脆ぜい弱じゃく性に直結する。普天間飛行場あるいは海兵隊部隊という局所限定的な既得権益の問題で、沖縄と日本本土の関係全体がこじれてしまうのは到底割に合わない。日米関係もしかりである。

 尖閣問題に関しては、軍事対立の最前線に立たされる沖縄県民にとって武力衝突の回避が必須の与件である。これは国民全体のメリットと齟そご齬はないはずだ。軍事的緊張を高める沖縄の基地強化は、「市民レベル」の視点に立てば、沖縄住民にとっても本土住民にとっても弊害であることに気づいてもらいたい。

 だが、こうした「説得」もおそらく効力はない。米国が「沖縄リスク」を直視する局面が生じない限り、日本は思考停止を続けるだろう。

「なし崩し」に加担するメディアの「客観性」

 原発にしろ、沖縄に過度に集中する米軍基地の問題にせよ、リスクや矛盾、不条理の論点は言い尽くされてきた。原発に関していえば、東京電力福島第一原発事故以降に洪水のように報道された「原子力ムラの癒着」「立地自治体の交付金依存」「核のゴミの処理問題」「原発労働者の現場」といったテーマの大部分は、3・11以前からさまざまなメディアを通じて世に問う場が設けられ、発信もされていた。事故後に新鮮だったのは、過去の原発報道に対するマスメディア内部の自己批判が一部で行われたことぐらいだろう。

 しかし結局、なし崩し的に原発行政が元の状態に戻りつつある流れをマスメディアは制止できないように映る。というより、装いだけ繕ったまま、早期復活を促す役割を担っているのもマスメディアではないかと思う。

 原発も沖縄の米軍基地の運用も、持続可能ではないシステムであることに気づきながら、根源的な課題の克服に向けて政治や世論が正面から向き合おうとしないのはなぜなのか。解決困難なものほど忘れ去られ、取り残されていく。その原因はマスメディアの致命的な弱点と直結していると考えている。

 トラブルが表面化したときマスコミは「問題点」を嵐のごとく再生産して報じるが、常に「一過性」に終わる。「発生もの」への対応か、「目先の経済」や、ときの政府が傾注していることをフォローするのに追われている。それが読者や視聴者の関心事であるということにして、これまでと異なるアプローチの模索を放棄していないか。解決すべき問題を(解決するまで)報道すべきだというニュース価値判断は成り立たないのだろうか。

 沖縄に関しても、マスメディアがこれまで通り「客観性」や「バランス」を第一に配意する姿勢では打開につながらない。大手メディアの沖縄報道は、米軍の重大な事件事故が起きたときには「沖縄の怒り」を、政府が対応に動けば「政治の落としどころ」を交互に伝えているだけではないのか。このとき、構成や編集のバランス上、「地元の声」は取り上げられるが、報道の立ち位置は常に「外からの視点」あるいは「中央発」の論点であるように感じられる。

 普天間代替施設建設に向けた政府の埋め立て申請も、「沖縄側の反対」は記事の要素に盛り込まれるが、辺野古移設という政府方針を根本から本気で問う報道はほとんどない。辺野古移設が実現すれば沖縄の基地問題は「解決」すると認識しているのであれば大間違いだ。それは問題の「先送り」にすぎない。

沖縄を追い詰める当事者は誰か

 先に筆者は、「沖縄への過度な基地負担の継続が日本全体の国益にとってもマイナスであるという論拠の提示が不可欠」と提起した。実は過去に、政府や大手メディアもそう認識した時期はあった。米海兵隊員による少女暴行事件が起きた1995年だ。

 当時、「沖縄の怒りの沸点」は政府にとっても本土メディアにとっても未知数だった。ときの橋本政権は本気で「日米同盟が揺らぐ」と危惧したからこそ米側と交渉し、沖縄が求める普天間返還合意を取り付けた。

 ところがその後、沖縄で米軍基地絡みの「県民大会」や「要請行動」が繰り返されるたび政府や本土メディアの危機感は薄れていった。誤解を恐れずに言えば、沖縄の反基地の取り組みは「恒例イベント化」したように受け取られたのではないか。

 同時に大手メディアの政治部や外務、防衛省の担当記者を中心に、「振興策欲しさに政府と駆け引きしている」「どうせ基地を容認するのだろう」といった側面ばかりが強調されていく。こうした言説は一面を捉えてはいても、問題の本質や沖縄内部の機微を見据える思考を削いでいく。政府官僚の意識・感覚とあまりに似通っていて、担当記者たちの「従順さ」には驚かされることが多い。マスコミ組織内では「中央の意識」を共有している記者や編集者の影響力が圧倒的に強く、等身大の沖縄を知る記者は一握りに限定されているのではないか。

 一方の沖縄側は偏見やギャップにさらされ、内部にいら立ちをため込んでいる。過剰な基地負担への異議申し立てを「政治の回路」に乗せて訴える行動は、県内全首長らが参加した1月の東京要請がピークとなる可能性がある。オスプレイ配備撤回や普天間飛行場の閉鎖・撤去と県内移設断念を求めるこの行動が実質的に不発に終わったことによって、既存の政治の回路では基地問題が解決に向かわない現実を県民はまざまざと見せつけられた。この影響は小さくない。

 というのも、行政とは一線を画した抵抗運動に依存する比重が、さらに増すと予見されるからだ。普天間飛行場へのオスプレイ配備直前の昨年9月。政府の強硬姿勢に怒りを募らせた市民が、4つの主要ゲート全てを一時閉鎖に追い込んだ。県警は機動隊を出動させ、市民の座り込みをごぼう抜きで排除した。

 ゲート前抗議は現在も続いている。参加人数は限定的だが、重要なのは消長ではなく、米軍基地への抗議の意志を示す場として「普天間のゲート前」が象徴的な場であり続けていることだ。「次」がいつになるのかは誰にも分からない。しかし、ゲート前が再び緊迫化する日は確実に来る。その場合も、県民が「撃たれる」ことは絶対にあってはならない。県民大会参加者の100分の1の人数がゲート前に参集するだけで基地機能は麻痺させられるのだから。

 物理的に米軍の基地運用に支障を及ぼせば、「違法行為」と判じられるかもしれない。このときもなお、大手メディアは「沖縄を追い詰めた当事者」という自覚を欠いたまま、「客観報道」に徹することだろう。

 沖縄の地元メディアの基地報道には常に「日本とはどういう国なのか」という本土への問い掛けがある。内部に属しながらも「外部から日本を見るまなざし」がある。一方で中央メディアは日本という国と合一化し、「客観視」する報道はめったに見られない。それはメディアの立ち位置として自明なのだろうか。外部化された沖縄の報道にかかわることは、それを自問するきっかけにもなるはずだ。

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渡辺豪(わたなべ・つよし)

沖縄タイムス記者。1968年兵庫県生まれ。関西大学工学部卒。92年毎日新聞社入社。北陸総局などを経て98年沖縄タイムス社入社。政経部基地担当などを経て特別報道チーム兼論説委員。主な著書に『「アメとムチ」の構図』(沖縄タイムス社)、『国策のまちおこし』(凱風社)、『私たちの教室からは米軍基地が見えます』(ボーダーインク)、『この国はどこで間違えたのか-沖縄と福島から見えた日本』(徳間書店)。

本稿は朝日新聞の専門誌「Journalism」4月号より収録しています