メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

物事を多角的に見ることで 生まれる「豊かさと深さ」に出合う

魚住昭(フリージャーナリスト)

 現代社会を描くうえでの必読書を10冊あげろという注文を「ジャーナリズム」編集長からいただいた。お安い御用だと思って引き受けてみたが、いざ書くとなると〈これが良い。いや、あれが素晴らしい。いやいや、これも捨てがたい〉と思いが千々に乱れて、うまく絞りきれない。

 これではいつまでたっても原稿を書き出せないので、自分の37年余の記者生活のなかで思い出深い本、忘れられない作品を順に挙げていくことにした。

 私は1975年に共同通信に入社した。べつだんこれといった深い理由があったわけではないが、記者をやるなら社会部記者だと最初から勝手に決めていた。なかでも裁判に対する関心が強かったので、将来は司法記者になりたいと思った。

司法記者をめざすきっかけになった本

 そのきっかけになったのが広津和郎著『松川裁判』(中公文庫)である。いまもわが家の本棚にある上中下の3冊本をめくってみると、文芸評論家の平野謙が解説を書いている。

 そのなかに「広津和郎の裁判批判の方法は、あたりまえの人間生活の理解を前提として、そこから調書・供述書・録取書などのリアリティの有無を検証し、事実と表現、実体と言葉との相関関係を吟味する方法」だというくだりがあった。

 まさにその通りだ。広津は「あたりまえの人間生活の理解」、つまり常識に拠って立って2審判決(死刑4名、無期懲役2名、懲役15年~3年半11名)を徹底批判し、それに見事に成功している。

 もしも広津がこの作品を書かなかったら、松川事件の被告たちは逆転無罪を勝ち取ることができただろうか。そう言いたくなるほど、説得力に満ちた歴史的文章だった。

 本当のジャーナリズムとはこれだ。こんな仕事をしてみたい。と思いながら、私は立川支局の記者として東京地裁八王子支部を取材して回ったが、ろくに原稿も書けない新米記者の目の前に、そう都合良く..罪事件のネタが転がっているはずもなかった。

「一人前になれるか」焦りながらも本を読む

 2番目の赴任地・岡山でも裁判所を担当したが、ここでもこれといった事件にはぶつからなかった。毎日が平穏無事で退屈だった。

 いま思えば、わが人生で最も贅沢な時間だったのだが、当時は「こんなことで一人前の記者になれるだろうか」と焦る気持ちが強かった。

 仕方がないから本を読んだ。なかでも強く印象に残ったものが三つある。

 ひとつは大岡昇平の『事件』(新潮文庫)だ。映画にもなったのでご存じの方も多いだろうが、ある田舎町で起きた殺人事件の発生から判決に至るまでの意外な展開を描いた〝推理小説〟である。

 『レイテ戦記』や『野火』を書いた作家の作品だから、良質で面白いのは言うまでもないが、そこには法律書ではわからない刑事手続きの実際がわかりやすく描かれていた。

 たとえば、検事の書く起訴状は現代日本語とはかけ離れた面妖な文体で、たいてい始めから終わりまで切れ目なしの一文だ。なぜか?

 「それは末尾に示される犯罪事実が、一連の状況、動機、故意のひとつの結果であることを示すためである。主語があいまいであろうとなかろうと、罪となるべき事実がそこに明らかに示されていれば、それでよい」

 と、こんな具合に、ふだんの取材で疑問に思ってもなかなか訊けない事柄をかみ砕いて説明してくれていた。

 そのうえ大岡は、裁判とは本来どうあるべきかという基本理念も丁寧にわかりやすく説いていた。その意味でも『事件』は私にとって最良の教科書になった。

 あとの二つは『開高健全ノンフィクション』(全5巻・文藝春秋)と、立花隆の『田中角栄研究』(全2巻・講談社文庫)だ。

 開高のベトナム戦記や釣魚紀行は、自然であれ、社会であれ、世界は驚きに満ちているのだということを改めて教えてくれた。

 立花の角栄研究は、文章をわかりやすくするには、目の前にいる読者に直接語りかけるように書けばいいのだということを実際に示してくれた。

本田靖春の『不当逮捕』に惹かれる

 その後、私は岡山を離れ、大阪社会部で6年勤務した後、東京本社に戻り、しばらくして検察担当を仰せつかった。今はどうだか知らないが、当時の検察担当は社会部記者にとっての正念場だった。

 ここで特ダネを連発すれば花形記者になり、特オチを連発すればダメ記者の烙印を押される。いわば事件記者としての運命の岐路である。私はむろんダメ記者と言われたくなかったので必死になって取材した。

 しかし、最初の数カ月は検察庁にネタ元もなく、あまり情報をとれなかった。夜回りで何の収穫も得られず、帰宅後もなかなか寝付けない。

 どうせ眠られぬのなら、検察の歴史の勉強でもしようと、記者クラブの本棚にあった何冊かの本を借りて自宅に持ち帰った。

 そのうちの一冊が本田靖春の『不当逮捕』(講談社文庫)だった。

 主人公は読売社会部のかつてのスター記者・立松和博。彼は57年、売春汚職に関与した代議士をめぐる誤報で東京高検に逮捕され、記者生命を奪われたあげく、失意のうちに死に至る。

 立松事件の背景には、「馬場派」と「岸本派」に分かれた検察内の勢力争いがあった。「岸本派」の東京高検は立松のネタ元だった「馬場派」幹部をあぶりだすため、立松逮捕に踏み切った。

 だが、立松が黙秘を貫いたため、「馬場派」幹部は危うく難を逃れ、その後「馬場派」は「岸本派」を放逐して検察の主導権を手にする。

 本田はこうした検察内での暗闘を余すところなく描いていた。

不思議な明るさと伸びやかさに満ちた作品

 しかし、私がこの本に惹かれた理由はそんなことではない。

 この作品は、主人公の悲劇的な最期にかかわらず、不思議な明るさと伸びやかさに満ちていた。自由と希望と熱気をはらんだ「戦後」という時代の息吹を見事に捉えていた。

 ああ、こんな時代が日本にもあったのだ。

 私は『不当逮捕』を寝床で読みながら、今までに味わったことのないような読書の幸せを感じた。そして本田の描く「戦後」という時代の魅力の虜になった。

 やがて私は検察取材に慣れ、いくつかの特ダネも書けるようになったが、本田の文章の深みに比べれば、自分の書く原稿はただ表面をさっとなぞっただけのゴミみたいなものだと思うようになった。

 いつかは本田のように「戦後」を描いてみたい。そんな気持ちが次第に抑えられなくなった。

 それから6年後、私は共同通信をやめ、フリーライターに転身した。理由はいろいろあるが、なかでもいちばん大きかったのは『不当逮捕』のような作品をいつか書いてみたいという身の程知らずの夢を見てしまったことだろう。

 その意味では『不当逮捕』との出合いは私にとって運命的なものだった。

 もちろん本田作品以外にも優れたノンフィクションはたくさんあった。たとえば立花隆の膨大な作品群は本田作品のレベルを凌駕していると言ってもおかしくない。

 なかでも『日本共産党の研究』(講談社文庫)や『ロッキード裁判傍聴記』(朝日新聞社)は、その論理性や緻密な分析力において他の追随を許さぬ作品だと言ってもいいだろう。

 しかし、私は本田作品ほどの魅力を感じなかった。なぜなら立花の視点は一定していて、つねに知的エリートの特権的な立場から物事を俯瞰しているように私には思えたからだ。

ある現象をこっちからもあっちからも見る

 対照的に本田の視点はつねに移動している。ある現象をこっち側だけから見るのではなく、こっちから見て、次は反対のあっち側から見る。物事を多角的に見るから、彼の作品には立花作品にはない豊かさと深さがあった。

 その特徴がいちばんよく出た作品が『誘拐』(ちくま文庫)である。

 『誘拐』は63年に起きた吉展ちゃん事件(4歳男児の身代金目的誘拐殺人事件)を題材にしたものだ。

 ふつうのノンフィクションは被害者側からか、あるいは加害者側の視点からしか事件を描かない。

 しかし本田はこの悲惨な事件を吉展ちゃん側と、犯人の小原保の側の両方から描いていた。つまり加害者と被害者の両方の視点から事件の真相に迫っていた。

 その本田の希有な眼差しが『誘拐』を『不当逮捕』に勝るとも劣らぬ傑作にした。戦後ノンフィクションの歴史のなかで本田作品が飛び抜けている点もそこにある。文章がうまいとか、構成が良いとかいうことは、この眼差しの豊かさの前には枝葉末節の問題でしかない。

眼差しの豊かさをいかに獲得したか

 では、どうやって本田はこの眼差しを獲得したのだろう。それは彼の絶筆となった『我、拗ね者として生涯を閉ず』上下(講談社文庫)を読めばよくわかる(以下、引用は同書より)。

 本田は戦前の植民地・朝鮮で生まれ、朝鮮人の上に君臨する日本人支配層の一員として少年期を過ごす。そして京城近郊で敗戦の8月15日を迎える。その翌日、彼は通りに出て思わず目を見張った。一夜にして景色が一変していたからだ。

 「それまでは何もなかった通りの片側に、忽然と市が出現していた。といっても、朝鮮特有の円型の大型むしろを、通りに沿ってずらりと並べただけのものである。衝撃的だったのは、むしろの上に小山のように盛り上げられた商品であった」

 砂糖と、コメだった。南方からの海上輸送ルートが寸断されて以来、とくに砂糖は極度に不足していた。コメも砂糖ほどではないにしても貴重品だった。夢にも見たことのない砂糖とコメの小山が目の前にある。それを見て本田は茫然自失の状態になった。

 「昨日までの欠乏品が、いったいどこに、どのようにして隠されていて、一夜のうちにどういう手順で商い手のオモニたちに渡ったのか、知る由もない。知ったのは、私たちのまったく与あずかり知らないところで『朝鮮』が逞しく生き続けていた、ということである」

 オモニたちは、申し合わせでもしたかのように、洗いたての白いチマ・チョゴリを身にまとい、満面に喜色を浮かべていた。白いチマ・チョゴリからの日の照り返しがあって、その表情をいちだんと輝かせていた。オモニたちは勝ち誇って見えた。うちひしがれた本田は、それ以上歩を進める気にならず、いま来た坂道を力なく引き返した。

 「白い砂糖とコメの小山、それを商う女性たちの白いチマ・チョゴリ。私の敗戦の思い出は、白一色である。極暑の太陽の下に繰り広げられた光景は、白日夢と思いたい。しかし、まぎれもない現実だったのである」

 それから約1カ月後の9月11日、本田は母親らとともに引き揚げ船に乗り、山口県・仙崎の港に着いた。

 そこで本田少年は「驚愕的な『発見』」をした。それは「港で立ち働く人びとがすべて日本人である」ということだった。朝鮮では単純労働者はみな朝鮮人だった。

 それこそが植民地の姿なのだが、そのなかで生まれ育った本田は、そうした不自然さをごく当然のこととして受け止めていた。彼にとっては日本人が港で立ち働くことのほうが不自然だった。だから自分を納得させるために繰り返し母に尋ねた。

 「ねえ、おかあさん、あの人も日本人?」 「ええ、そうよ」

と答えていた母は、同じ質問があまりにも度重なるので、叱りつけるようにいった。

 「あなた、何度同じことを訊いたら気が済むの」

 港は馬車や牛車を曳いてやってきた農家の人たちで賑わっていた。彼らは引き揚げ者の荷物を駅まで運ぶ。それによって得られる現金収入の機会を逃すまいと大わらわだった。本田にとって、この光景は、まさにカルチャー・ショックだった。

 「差別的表現をあえてするなら、『下層』もすべて日本人によって占められているという現実」が「この世のものとはどうしても思えなかったのである」。

 港の雑踏の中で事件が起きた。京城の社宅で顔なじみだった婦人のリュックサック類がそっくりなくなっていたのである。まさかの出来事だった。

 本田らは「皇民化教育」の中で育った。朝鮮人に日本人名を名乗らせる「創氏改名」が勧められ、朝鮮語を使わせないようにする運動が展開された。「内地人」は天孫民族なのだから「半島人」のお手本にならなければならないというのが本田らの思い込みだった。

 だが、社宅の婦人の荷物を盗んだのは状況からして内地人の可能性が高い。そう思ったときの衝撃は強烈だった。

 「えっ、内地では日本人が泥棒をするのか。そう悟ったとたん、頭から血が引いていく感じがした。恥ずかしいことだが、片寄った人間に育ちつつあった私は、正当に立ち働く同胞の姿にさえ、大きな違和感を持ったのである」

 これは私の勝手な推測だが、本田の原体験は京城の白一色の光景と、仙崎の港で受けたカルチャー・ショックだ。彼の人格は、植民者二世としての朝鮮人に対する加害意識とともに、この二つの原体験を繰り返し想起することによってつくられたと言ってもあながち的はずれではあるまい。

 帰国した本田は、最初に身を寄せた長崎県・島原でひどいいじめに遭う。さらに上京してからも、父親の病気などで極貧生活を送る。幼いころの特権的生活環境と比べて、日本での物心ついてからの境遇との落差が激しく、彼は引揚難民といってよかった。

 その境遇の落差も本田を本田たらしめた一因だろう。ついでに言ってしまえば、本田は読売新聞に入社してから記者として恵まれた地位を得るのだが、その読売も自ら退社して、明日の生活をもしれぬフリーの作家になる。つまり彼の境遇は二転三転するのである。と同時にものを見る視点もどんどん移動していく。

 これは世の中の事象を見るうえでとても大事なことだ。ある一定の視点から見続けたのでは、起きている現象の本質は見えてこない。視点が変わった瞬間に見えてくる新たな価値観と、それに対する驚き、それこそが彼のノンフィクションに生命を吹き込んだのである。

「へっ?」と言いたくなる事態に出くわす醍醐味

 私事で恐縮だが、私自身が取材の醍醐味を感じるのもそういう事態に出くわしたときだ。

 テーマが何であれ、取材をはじめる前には自分のなかに固定されたイメージ、つまり先入観念が存在する。ところが丹念に取材していくと、必ずと言っていいほど「へっ?」と思わず言いたくなる事態に出くわす。たいていは取材相手のふとした一言からである。

 間違えないでほしいが、「ええっ!」という驚きの感嘆詞と「へっ?」とは質的にちがう。

 突然、それまでの先入観念や、常識的な価値観が通用しなくなり、新たに出現した事態をどう解釈したらいいのかわからない戸惑いを感じたとき「へっ?」と思うのである。
これだけではなかなかわかってもらえないだろうから、もっと具体的に説明しよう。

 私はかつて4年がかりで自民党の野中広務元幹事長の評伝取材をした。取材をはじめる前に私がかれについて抱いていたイメージは、ダーティで恐ろしげな政治家だった。
彼の生い立ちから町長、京都府議会議員を経て京都府の副知事に就任するまでの経緯を調べるために、私は地元の旅館に1ヵ月近く泊まり込んで周辺取材を進めた。彼の政敵や反対党派はもちろん、彼の幼なじみや中学の同級生、支持者らに片っ端から話を聞いて回った。

 すると、彼の強面のイメージとは正反対のエピソードを語る人びとにしばしば出くわした。

 弱い者、虐げられた者、差別された人たちの痛みを理解する優しさという、思いもしなかった側面を知らされた。私はそのたびに「へっ?」とつぶやいた。

 その後も私は「へっ?」という場面に何度も出くわした。そうして私は野中像を何度も何度も修正しながら『野中広務差別と権力』(講談社文庫)を書いた。

 もし、ホンの少しでもこの本に読むべきところがあるとするなら、それは「へっ?」という価値観の修正の連続があったからだろう。

俳優の破天荒な人生を描いた名作

 さて私は本田作品に傾倒するあまり、他の作者の著作を紹介することを怠ってしまったようだ。

 たとえば竹中労の『鞍馬天狗のおじさんは』(ちくま文庫)という作品は、嵐寛寿郎という俳優の破天荒な人生を描いた名作としてここにあげておかねばなるまい。

 私はこれを読みながら、久しぶりに腹の底からげらげらと笑った。それも竹中が嵐寛寿郎の軌跡を徹底的に調べ上げ、嵐の本音と芸能界の摩訶不思議さを彼から引き出しているからだ。

 戦後ノンフィクションの歴史に残る人物評伝の傑作だから、まだお読みでない方には是非お薦めしたい。竹中労はまごうかたなきノンフィクションの名手である。

 他にも挙げたい本はいろいろあるのだが、いちおう10冊のノルマを果たしたのだからこの辺で打ち止めにしたい。

 私の独断と偏見に満ちたセレクションのうち、1冊でも読者の参考になる作品があったら望外のしあわせである。

「現代社会を描くための10冊」

魚住 昭 選

広津和郎
『松川裁判』上中下
(中公文庫)

大岡昇平
『事件』
(新潮文庫)

開高健
『開高健全ノンフィクション』
全5巻
(文藝春秋)

立花隆
『田中角栄研究 全記録』全2巻
(講談社文庫)

立花隆
『日本共産党の研究』全3巻
(講談社文庫)

立花隆
『ロッキード裁判傍聴記』全4巻
(朝日新聞社)

本田靖春
『誘拐』
(ちくま文庫)

本田靖春
『我、拗ね者として生涯を閉ず』
上下
(講談社文庫)

竹中労
『鞍馬天狗のおじさんは』
(ちくま文庫)

    ◇

魚住昭(うおずみ・あきら)

フリージャーナリスト。
1951年生まれ。一橋大学法学部卒業後、共同通信社に入社。地方支局を経て、司法記者として東京地検特捜部、リクルート事件の取材にあたる。著書に『特捜検察の闇』(文春文庫)、『渡邊恒雄 メディアと権力』『野中広務 差別と権力』(ともに講談社文庫)、『国家とメディア 事件の真相に迫る』(ちくま文庫)、共著に『沈黙のファイル』(共同通信社社会部編、新潮文庫)などがある。

本論考は朝日新聞の専門誌「Journalism」8月号より収録しています。同号の特集は「ジャーナリストが薦める100冊」です。一線のジャーナリストらが様々な本を推薦しています。詳しくはこちらを。