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参院選報道の「劣化」を考えつつ メディアの土壌を耕し続けよう

金平茂紀(TVジャーナリスト)

 元共同通信の原寿雄さんの伝説的な名著『デスク日記1963~68』が自選セレクション版としておよそ半世紀ぶりに復刊され、お祝いのイベントが6月23日に都内で開かれた。その席で原さんがポツリと呟かれた。「いまのジャーナリズムの劣化の源は政治報道にあるような気がするね」。参院選の投開票日のほぼ1カ月前のことだ。その後の選挙の結果、政権与党である自民党が圧勝し、「1強多弱」の政治の構図が出来上がった。日本の憲政史上でもあまり類例をみないような「野党勢力の極度の衰弱」、つまり政権与党をチェックする批判勢力が大きく後退した。

 その先には何があるのか。野党がさらに消え去っていくのだろうか? 野党なき一党支配の政治と言えば、近隣では中国や北朝鮮といった国々がある。現政権がまるで「仮想敵国」のように遇している感のある国の政治体制に、僕らの国は選挙の結果「近づいた」のである。

 もっともそれらの国々には国政選挙という制度そのものがない。選挙という一応民主的な手続きによって非民主的な政治体制を手繰り寄せてしまう背理。近現代史の中では、ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)が国政選挙によって国民の多数の支持を得て、あのような非民主的な一党支配体制に邁進していった。

 内田樹氏は選挙から2日後の朝日新聞の紙面で、政権与党を圧勝させた有権者の判断について「未来の豊かさより、今の金」と喝破した。そのような分析でさえ一部の有権者たちは「上から目線」などと揶揄し、もとの無思考の日常へと戻っていくだろう。考えない。過去から教訓を得ようとしない。自分の半径5メートル圏内のことが何より大事。未来よりも1時間後の取り分。♪金が欲しくて 働いて 眠るだけ♪(.忌野清志郎)。それで何が悪いんだい、と。

 本誌は「Journalism」というタイトルの雑誌であって、このような雑感を並べても仕方がないのだ。メディア、報道機関、とりわけ僕の携わっているテレビの報道部門が、この選挙報道において、何を今考えなければならないのかを提示することが、この欄の役割なのだろう。だが、そもそも僕らテレビは「その時」が過ぎ去ると、もうほとんど何も考えてもいないのだ。それどころか一刻も早く忘れてしまいたいとさえ思っている。

 論を進めるために、5年前に亡くなった師・筑紫哲也が言い残していったテレビジャーナリズムの果たすべき役割論に沿って、今回の参院選のテレビ報道について考えてみる。多くの同業メディア関係者が目にしているこの「プロ」の雑誌にいちいち記すまでもないジャーナリズムの基本のようなことがらなのだが、あえて記す。

 (A)力の強いもの、大きな権力に対する監視の役を果たそうとすること。とかく一つの方向に流れやすいこの国で、

(B)少数派であることを恐れないこと。

(C)多様な意見や立場を登場させることでこの社会に自由の気風を保つこと(2008年3月28日の筑紫氏最後の「多事争論=変わらぬもの」より)。

 (A)について。本誌3月号でも触れたが、ジャーナリズムによる監視という機能について、欧米では「監視犬=ウオッチドッグ」という言葉がよく用いられる。権力は肥大化、強大化すると暴走する。ジャーナリズムの機能では、この暴走を防ぐために権力のありようを常時監視することこそが核心であり、権力を浴びせられる市民の立場からも望まれることであった。

権力と報道機関 「癒着」と「圧力」の間で

 公共機関としての報道メディアのそもそもの存立理由は市民の「知る権利」への奉仕にあったはずだ。われわれのもつ様々な「特権」は「知る権利」を行使するために市民から負託されたものだ。だが参院選報道ではどうだっただろう。監視犬どころか、一部のメディアは強い力、大きな政治権力の「愛玩犬=プードル」と化していなかったか。

 その端的な例は、選挙報道以前からのテレビへの一国の首相の単独出演の機会の異様な増加である。今年1月から参院選公示日までの間に、首相のテレビ単独出演の機会は1カ月にほぼ2.5回(7カ月間に計18回)というほどの頻度だった。

 評判の悪かった官邸記者クラブ慣行(首相の単独取材は事実上の持ち回り制)をご破算にして、取材申し入れは各社自由、受けるかどうかは官邸サイド(および首相本人)の判断に委ねる方式に変わってから、堰を切ったように出演ラッシュが始まる。ニュース報道番組にとどまらず、ワイドショーや情報系トークショー、東京以外の局(関西)の情報系番組にも出演した。

 これらのテレビ出演では、テレビ局側は「監視犬」どころか、国の最高権力者に出演していただく「光栄」に浴したとでもいわんばかりの手厚い遇し方だったというのが実態ではないか。

 出演実現にあたって陰に陽に奔走した一部の政治記者の中には、官邸内のキーパーソンや実力者と「癒着」してしまったかのようなケースもある。僕自身、長い歳月テレビ報道の仕事に携わってきて、政治記者の経験がないのだが、当局のパワーエリートと呼ばれる人物らと接した機会は少なからずある。取材者である自分と何らかの権力をもつ当局者との「距離」について自然と意識せざるを得ない場面に何度も出くわした。

 政治記者の中には、大物実力者に「食いこんで」いて、内輪話の席で「あいつは○○には強いんだ。食いこんでいるから特ダネも抜ける」などとまことしやかに説明された人物もいた。どこのメディアの政治記者にもそういう人物がいるだろう。それらの記者たちの立ち居振る舞いもみてきた。政治家との親交を社内政治に使って出世をめざす輩もいる。記者やアナウンサーから政治家に接近して自分が政治家になった例もある。

 これは欧米のメディア社会でもみられることだ。だが、『大統領の陰謀』でウォーターゲート事件の深層を暴露したワシントンポスト紙の伝説的な敏腕記者ボブ・ウッドワードでさえ、近年はもっぱら権力者に近づいて内部情報をとってくるという取材パターンを批判され、「アクセス・ジャーナリスト」と語られる時代だ。そういう意味では欧米社会のジャーナリズム界では、腐ってもウオッチドッグの伝統は守られており、プードル化の兆候は非難の対象となる。

 僕らはどうだろうか? 共同通信を辞めた辺見庸氏が、一部の政治部記者・社会部記者のことを「糞バエ」と呼んだことで、共同通信の記者から「人格まで貶める暴言」だと抗議されたが、撤回する気なんかさらさらないと記していたことがあった(02年『永遠の不服従のために』)。

 自分は「糞バエ」とは異なると自覚している政治部記者たちに希望をつなぐことができるだろうか。僕にはわからない。僕は、生前の筑紫氏と政治部記者のある種のステレオタイプ(政治家に食い込み同化してしまうようなタイプ)について冗談交じりに話をしたことがある。ミイラ取りがミイラになってしまうことがあるでしょう、と水を向けると、筑紫氏は「息もできないような汚れきった沼の中にずうっと長期間潜っていてもね、時折水面上に息をするために戻って来なければならないだろう。その時に何をきちんと語るかだと思うよ」と言った。

 権力を監視する役割を担うはずのジャーナリズムが、権力側から報道内容に異議を申し立てられた時にどのような姿勢をとらなければならないか。これについては、僕の個人的立場から考えても、決して逃げてはならないと思う出来事があった。

 TBSが参院選報道のさなかに、政権与党の自民党から取材拒否の通告を受けたのである。6月26日放送のTBS「ニュース23」の報道内容が「公平さを欠いている」として、TBSに対して党幹部に対する取材や幹部の出演を拒否する、と7月4日に党が発表したのだ。TBSではこれにすばやく反応し、翌日には「指摘を受けたことを重く受け止める。今後一層公平、公正に報道していく」との報道局長名の文書を自民党の石破茂幹事長に提出した。

 自民党側は「政治部長はじめ報道現場関係者」が「数次にわた」って「説明」のために自民党を訪れたことを「誠意と認め」、回答文書を「謝罪と受け止め」るとして措置を撤回。その日の夜にBSフジの番組に出演した首相も「事実上の謝罪をしてもらったので問題は決着した」と発言した。だが、TBSの政治部長はその夜、「放送内容については訂正、謝罪はしていない」と述べた。

 僕はこの週、エジプトの政変の取材でカイロにいた。以上のことがらはリアルタイムで他社が報じてきた速報で知った。反モルシ大統領派の軍や警察が、モルシ大統領支持派に近い放送局(アルジャジーラ・カイロ支局など)を武力によって閉鎖した現場や、逆に軍に近い国営テレビ局に抗議デモをかける市民の取材などをしていた。頭が混乱した。目の前で起きている報道機関の独立性に関する暴力的な事態と、同時に日本で自らが所属している放送局でリアルタイムで起こっていることに対して。帰国後に事態を多少なりとも把握して、この出来事の深刻さを今現在も考え続けている。

 共同通信OBの藤田博司氏の次のような指摘が本質を言い当てていると僕自身は思う。

 〈政治が報道に露骨に干渉したことである。報道の内容に直接口出しし、圧力をかけるような行為は、政党あるいは政治家として最も慎まねばならないことである。仮に報道の内容が不当、不正確と見られるものであっても、政治の側は言論を通じて反論、釈明すべきであって、取材拒否などの露骨な圧力をかけて訂正、謝罪を求めるのは間違っている。メディアに対するこの種の圧力は、憲法に保障された言論の自由、表現の自由に対する明白な侵害と言わねばならない〉(「メディア展望」13年8月号の同氏の記事より)

 自らが属するテレビ局の対応については、僕自身はこれ以上はここで記すべきではないと考える。僕自身が組織内でやれることがまだあるはずだからである。それを行う前に対応について記すことを潔しとしない。

懺悔の値打ちもないけれど必ず芽は出る

 (B)についてはどうか。少数派であることを恐れないことに、テレビの参院選報道がどれだけ自覚的だったか。これは狭いメディアの世界の中で少数派であることを恐れないという意味よりも、メディアが耳を傾けるべき市民たちの声の中で、少数派の人々の声がどれだけ反映されていたかということである。例えば沖縄の県民の声。選挙報道の中でどれだけ注視されていただろうか。例えば原発事故被災者たちの声。TPPによって影響を被る農民たちの声。これは次の(C)とも絡んでくる。

 (C)について。多様な意見や立場を登場させることで、この社会に自由の気風を保つこと。言葉を換えて言えば、多様なアジェンダ・セッティングの機能である。そこで自らに問わねばならない。〈衆参の「ねじれの解消」が焦点となっている参院選〉という決まり文句のように垂れ流された原稿を書いていたのは、どこの誰だったのかと。

 「ねじれの解消」は本当に選挙の焦点だったか? 事前の投票予測調査で自民の圧勝が読めてしまった政治部記者たちは、いわば選挙結果を先取りしたような立ち位置から、絶対に外さない(ほとんど犯罪的に凡庸な)ヘッドラインをあらかじめ作り上げていなかったか?

 「ねじれの解消」に続いて「アベノミクス」への評価が争点とされた。この国の未来を考える上で根源的に切迫してきているテーマ、原発事故への対処や原発再稼働問題、震災からの復興計画、TPP参加の是非、憲法改正への動きといったテーマは、「世論調査の結果からも関心が低い」と分析され、「ねじれの解消」へと収斂されていった。このことの失態・劣化の意味を考え続けるべきだ。回答のヒントは、選挙後すぐにこの国で露わになったいくつかの「強行」事態にあるように思われる。

 ▼福島第一原発敷地から漏れ出している汚染水が海洋に流れ出している事態。東電は参院選投票日前に把握していたが、発表は投開票日の翌日だった。一日300トン以上というとてつもなく深刻な事態である。▼投開票日深夜、沖縄県の普天間基地ゲート前にいきなり工事業者が現れ、フェンスを造り始めた。さらに同基地にオスプレイの追加配備が始まった(8月3日)。5日のヘリ墜落事故で配備は一時中断。▼麻生副総理が憲法改正論議に絡んで「ナチスの手口に学んだらどうかね」と暴言。その後撤回(8月1日)。▼内閣法制局長官を異例の人事で交代(8月2日に一報)。集団的自衛権容認派を任命した。▼福島第一原発の過酷事故に対する刑事告訴事件について検察当局は立件を見送る方針を固めた。

 いずれも参院選の前であれば大問題になっていたことばかりである。特に汚染水漏れの隠ぺいは犯罪的でさえある。

 懺悔の値打ちもない。今、僕らの目の前に拡がっているのは、「1強多弱」という超安定政権のもとで、メディアの真価が問われる荒野のような風景である。メディアはしかし、土壌である。耕していけば、必ず新しい芽が生えてくる。メディアを耕す。耕し続ける。その覚悟を新たにしよう。

    ◇

金平茂紀(かねひら・しげのり)
TVジャーナリスト。1953年北海道生まれ。77年TBS入社。モスクワ支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長、アメリカ総局長などを務め、10年から執行役員(報道局担当)。著書に『テレビニュースは終わらない』『沖縄ワジワジー通信』など。

本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』9月号から収録しました