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一線を越える安倍政権 問われるリベラル系メディアのチェック機能

渡辺豪(沖縄タイムス記者)

 集団的自衛権の行使容認に意欲的な安倍政権は、憲法解釈見直しに前向きな小松一郎氏を内閣法制局長官に抜てきした。

 集団的自衛権は、自国と密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、自国に対する攻撃とみなして実力で阻止する権利だ。行使容認は平和主義の理念を空洞化させ、専守防衛の範囲を逸脱し、海外での武力行使も可能にする。事実上、憲法9条を空文化する改憲に等しい決定を、国民が関与できないところで行おうとする安倍政権は明らかに一線を越えつつある。

 野党が存在感を欠く中、マスメディアの権力チェック機能がこれまでにも増して求められている。が、安倍政権に対するマスコミの評価は、保守とリベラルで大きく分かれている。読売や産経といった保守系メディアは、集団的自衛権の行使容認に向かう安倍政権を一貫して支持する。そうした中、朝日や毎日といった主要紙をはじめ、筆者が属する沖縄タイムスを含むリベラル系のメディアの取り組みが問われている。

 何をすべきか、何ができるのか。

ジャパンハンドラーの要求に応じることを目的化

 8月20日付毎日新聞夕刊「特集ワイド」の問題意識は明確だ。集団的自衛権の行使容認に向けた安倍政権の手法の問題点を整理し、「憲法解釈がなし崩し的に変更されたら、他国から攻撃されるより先に『法治国家』日本が崩壊する」と警告している。

 この中で、元内閣官房副長官補の柳沢協二氏は、「近海で米艦が攻撃されれば日本有事で憲法が認める個別的自衛の範囲内であるし、米国に向かうミサイルは北極を通るため物理的に国内から迎撃できない。いずれも集団的自衛権を行使したいという抽象的な政治目標を達成したいだけではないか」とコメントしている。

 日本政府はなぜ、「抽象的な政治目標」にまい進するのか。近年の日本で集団的自衛権が取りざたされるようになったのは、2000年の「第1次アーミテージ報告」で行使容認が日本への期待として盛り込まれたことが少なからず影響している。

 対日外交の指針として米国の超党派メンバーによって作成されるこの政策提言は、07年の第2次報告、昨年8月の第3次報告を通じ、直接、間接織り交ぜ、日本に集団的自衛権の行使容認や9条改憲を求めている。

 日本政府の外務・防衛官僚は、元米国務副長官のアーミテージ氏ら一握りの米国のジャパンハンドラー(対日関係の操縦者)の要求に応じることを目的化している。このため、抽象的な政治目標であろうが、自国民にいかなる犠牲を強いることになろうが、とにかく「要求に応えることに意義がある」という思考停止に陥らざるを得ないのではないか。

 集団的自衛権の行使容認によって「安保の双務性(互いに義務を負う)」を担保するのであれば、多額の「思いやり予算」(在日米軍駐留経費の日本側負担)の支払い停止や日米地位協定の改定、沖縄を始めとする在日米軍基地の削減・撤退も同時に議論していくのが筋だが、日本側からは全くそういう声が上がらない。日本が集団的自衛権行使に踏み切る目的が、自主外交に舵を切るためではなく、米国により深く臣従することにあるから、そうなるのだろう。

 戦後日本の支配階層は、対米関係を腫れ物にさわるように扱ってきた。

 直近でこの虎の尾を踏んだのは鳩山由紀夫元首相だ。普天間飛行場の移設先を「最低でも沖縄県外」と唱えた鳩山氏は、ジャパンハンドラーから激しい非難を浴びた。それを繰り返し報じたのは日本の主要メディアである。過度な対米追従からの離脱を模索することすら政治的に「危険視」される状況は異様である。

 安倍晋三首相はこうした構造を熟知し、主体的にジャパンハンドラーの意向に沿うようにふるまっているのだろう。今年2月、ワシントンを訪れた安倍首相がアーミテージ氏らの活動拠点である保守系のシンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)で講演したのは象徴的だった。

 なぜこうした背景を記すのか。過度な対米追従の実態にマスコミが無自覚なまま批判を重ねても、安倍政権の危うさの本質には切り込めないと考えるからだ。

 集団的自衛権をめぐる安倍政権の政治手法が法的に「逸脱」しているのは論をまたない。が、世論を動かすには国民生活に直結する利害を提示する必要があると思う。

 日本は米国に従属している。その事実を正視した上で、対米従属の下で行使容認に踏み切るリスクを、マスコミは包み隠さず国民に知らせるべきではないかと思う。

 米国との関係が対等ではない中、「米国の戦争」に巻き込まれないようにするにはどうすればいいのか。これは国民の生命・財産を守る上で、差し迫った課題と捉えるべきだろう。

 集団的自衛権の行使容認で問われるのは、自国民を危険にさらしても日米同盟を優先させる覚悟はあるのか、ということではないか。無論、安倍首相にはあるのだろう。だが、一般国民はどうだろう。日米同盟=「国益」という論理の下、命を投げ出す覚悟はあるのか、と世論に問うてみたい。前線に立たされることになる自衛隊員の「命の重み」という視点で、どれだけ議論が積み上げられてきたのかも甚だ疑問だ。

日米同盟の名の下 安全が脅かされている

 日本本土からは見えにくいかもしれないが、沖縄では日米同盟の名の下に県民の安全が日常的に脅かされている。沖縄タイムスで「県民の安全」「県民の命」というキーワードで検索したところ、この1年間(昨年8月~今年8月)の米軍の運用や事件事故に絡む記事は約70に上った。ほとんどが日米同盟を優先し、県民の命や安全を危険にさらしてもいいのか、という異議申し立てである。

 記事の一例を挙げる。宜野座村の米軍演習場で墜落、炎上した嘉手納基地所属のHH60救難ヘリコプターの同型機が事故から11日後、事故原因が特定されないまま飛行訓練を再開した。

 その翌日の今年8月17日付の社説は「見切り発車」の飛行再開に対して「県民の安全をないがしろにするものであり、とうてい納得できない」と指弾した。米軍の担当者が「停止が長引くと、救難技術に衰えが出る」と訓練再開の理由を説明したことにも触れ、「住民の安全より米軍の論理の優先だ。生身の県民の存在はすっぽり抜け落ちている。軍隊の本質である」とも付言している。

 米軍基地が集中する沖縄は日々、「有事」のような環境に置かれている。集団的自衛権の行使容認は、自衛隊が戦場で米軍と一体化することでもある。全国の自衛隊は今よりも急ピッチに米軍と融合し、短期間で大きな変貌を遂げるだろう。住民生活の場に軍事優先の論理が幅をきかす状態とは、どういう「痛み」を強いるものなのか。現場の皮膚感覚を欠いたまま、集団的自衛権の観念的な議論が進むのは、沖縄の状況を多くの国民が直視してこなかったことの現われだろう。沖縄県内外のメディアの「伝え方」がますます問われる局面だと認識している。

リベラル系全国紙の論調の弱点

 地方紙に属する筆者が自社のことを棚に上げるようで心苦しいが、リベラル系全国紙の論調の弱点を指摘しておきたい。

 それは、一貫性の乏しさだと感じている。筆者はそのことを普天間問題への論調で実感できる。鳩山政権時代の報道を振り返りたい。

 沖縄タイムスは10年7月31日付の社説で、普天間問題に対する当時の全国紙各紙の社説で違和感をもつ一節を列挙した。

 「傷ついた日米当局間の信頼をどう回復するつもりか」(朝日)、「普天間問題を日米同盟全体を揺るがす発火点にしてはならない」(毎日)、「安保にかかわる米軍基地問題に関して、県民の意向だけに委ねるような姿勢は危険である」(読売)

 社説はその上で「『同盟危機』という言葉が思考停止を起こさせ、メディアは自ら言論の自由度を下げてしまった。権力監視というメディアの存在価値が問われる」と異例の苦言を呈した。

 この2日前。普天間爆音訴訟の控訴審判決で、福岡高裁那覇支部は、ヘリコプター特有の低周波がもたらす精神的被害を初認定した。判決は一方で、住民が求めた飛行差し止めは退けた。

 同判決を受けた原告団の記者会見の席で、島田善次団長は県外の大手メディアの報道のあり方を痛烈に非難した。

 「あなたたちは司法よりたちが悪い。鳩山(由紀夫前首相)が県外と言ったときに日米同盟が破たんすると朝日新聞をはじめ各新聞が騒ぎ出した。破たん、破たんと騒ぐばかりで読むに耐えない」。会場に集まった原告や支援者からはこの日一番大きな拍手が起きた。

 社説はこの出来事を踏まえたものである。沖縄県内で中央メディアの「沖縄報道」が公然の場でこれほど辛辣に批判されたのはおそらく初めてのことだ。

 鳩山政権での朝日新聞社説の迷走を、10年9月号の本誌で屋良朝博氏(当時沖縄タイムス論説兼編集委員、現フリージャーナリスト)が詳細に記している。以下に一部を要約、再掲する。

 朝日新聞社説は10年1月の名護市長選で移設反対派の市長が当選すると、「『県外』探しを加速せよ」(1月25日)と主張した。ところがその後、ホワイトビーチ沖の人工島埋め立て案、徳之島案などが飛び出した3月、「暫定的に一部の負担を(沖縄)県内で引き続き担ってもらうことも(中略)あるだろう」(3月29日)と主張を変えた。そして鳩山前首相が5月末とした決断の期限が残り1カ月に迫った4月14日の社説は「首相は一部の機能を沖縄県内に残しつつ、極力、県外への移設を模索しているようだ。時間的な制約のなかでやむをえない方向性ではあろう」と県内移設を後押しした。

 こうした経緯を説明した上で屋良氏は「主張が一変した理由は何だったのか。『最低でも県外』から『辺野古回帰』までの『鳩山迷走』が日米同盟を傷つけたと断罪されたが、朝日も同じく迷走した」と指摘している。

 鳩山政権の崩壊後、普天間問題は国政の焦点から外れていった。奇妙なのはその後、沖縄にとって事態が悪化していく中、肝心な局面で沖縄を「見限った」かに映った朝日の論調が再び、「沖縄寄り」に移行しているように見えることだ。

 朝日新聞は今年3月5日付社説で「日米同盟が重要だというなら、日米両政府で辺野古に替わる選択肢がないか改めて検討すべきだ。本土への基地の分散移転も、真剣に探るべきではないか」と主張した。

 一読すると、沖縄タイムスの社説の論調と変わらない。

 ただ、沖縄から見れば、鳩山政権時、普天間の県外移設の実現よりも、日米同盟が重要だと唱えてきたのは他でもない、大手メディアのあなたたちではないか、との思いがぬぐえない。

 朝日の社説は変化したのだろうか。今後、日米同盟がぎくしゃくすることがあっても、沖縄県民の民意を優先し、県外に移設すべきだと踏み込んでくれるのだろうか。

 うがった見方をすれば、安倍政権が「辺野古見直し」を一顧だにしない現状を十分認識した上で、社説で「県外移設」を唱えても現実化しそうにないので、「安心して」辺野古移設に批判的な論陣を掲げている面はないか。具体的な本土の地名を挙げなければ、「本土への分散移転」にも反発は及ばない。代替案の提示をあいまいにしておけば、誰からも文句を付けられにくい。そんな「打算」はないか。これでは、国民の良心をくすぐり、罪悪感を薄らげているだけである。政策転換の実現を求める姿勢は本物かと問いたくなる。

 普天間問題も、その時々の世論の「空気」に合わせて自在に論調を変幻させているように見えなくもない。こうした感性は「沖縄は気の毒だが、自分の住む所に米軍基地は来てほしくない。しかし日米同盟は重要だ」という、何の解決にもならず解決する意思もない、日本国民の心性とシンクロしているようだ。

 やはりどこか「他人事」である、と受け止めざるを得ない。同時に「きれいごと」のようにも映る。

 その点、読売や産経といった保守系メディアの論調は、善しあしはともかく、「辺野古移設推進」で一貫している。国防上の「メリット」の提示も怠らない。建前でなく、本音を訴えているように映る。

 リベラル系メディアの役割は、「右傾化」の流れに符合して保守系メディアの論調にすり寄ることではない。「越えてはならない壁」や「譲れない一線」はどこにあるのかを明示し、ときの政権のスタンスや世情に流されずに論陣を張る毅然さが求められているのではないか。

 憲法9条を盾に集団的自衛権の行使を認めない憲法解釈は、対米従属を国是としながらも、大国アメリカの要求に無為に従うことを回避する、「政治の狡知」として長年機能してきたはずだ。このカードを捨て去る国益の損失は「きれいごと」では済まない。

 今はもう自民党内のリベラル派の声もほとんど表には出てこない。リベラル系の大手メディアには建前ではなく本音で全国世論に発信してもらいたい。

     ◇

渡辺豪(わたなべ・つよし)
沖縄タイムス記者。1968年兵庫県生まれ。関西大学工学部卒。92年毎日新聞社入社。北陸総局などを経て98年沖縄タイムス社入社。政経部基地担当などを経て現在特別報道チーム兼論説委員。主な著書に『「アメとムチ」の構図』(沖縄タイムス社)、『国策のまちおこし』(凱風社)、『私たちの教室からは米軍基地が見えます』(ボーダーインク)、共著に『この国はどこで間違えたのか』(徳間書店)。

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本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』10月号より収録しました。同号の特集は「正念場を迎えた日本の政治と社会 憲法改正とメディア」です